第26話
クラスの手伝いを終えたのは、ちょうど午後1時。スマホに届いた連絡を受けて、治樹は大慌てで校門に急いでいた。
手品の師匠である赤間が、学校に到着したのだ。ショーの観覧だけではなく、また無理を言って小道具を用意してもらっていた。
校門を抜けた先にある受付所で、周囲を興味深げに見回しながら赤間は待っていた。彼の前には、発泡スチロールのケースを乗せた台車が置かれている。
「お待たせしました、赤間先生」
「いやぁ、たいして待っていない、気にすることはないよ。――それにしても、君の学校の学園祭はすごいね。想像以上に本格的だ」
「ぼくも一年の頃は驚きました。こういのが好きな校風なんですかね」
通常想像する高校の学園祭とは一味違う。斜に構えて冷めた態度を取りがちな年頃だというのに、生徒達が本気で楽しもうという空気に満ち溢れていた。旗振り役の生徒会長は、ああ見えて案外尻を叩くのがうまいのかもしれない。
「あの、それで、頼んでいたものは用意できましたか?」
「ああ、ここにあるよ」と言って、赤間は発泡スチロールのケースを指差す。
「何度もすみません。赤間先生に面倒ばかりかけてしまって……」
「本当に気にしないでよ。面白いアイデアだと思ったから、ぼくも協力しようと思ったんだ」
照れ笑いを浮かべた治樹は、そっとケースを開けてみる。中には水が張ってあり、20近くの赤が目につく。ゆらゆらとケースで泳いでいるのは、金魚だ。水槽の手品で使用することを思いつき、赤間のコネを頼って業者から購入してもらった。
金魚が泳ぐ水槽で手品を行う――見栄えは格段によくなることだろう。
「赤間先生、ショーまでにまだ時間はあります。どうしますか、校内を見て回るなら案内しますよ」
「そこでプログラムをもらったんだが」受付所には学園祭の進行表が置かれていた。「講堂の公演を見ながら、手嶋くんの出番を待つことにするよ」
それならば、せめて講堂までの道案内だけでもと治樹は買って出る。どちらにしても赤間の付き添いがないなら、講堂に行って準備をする予定だった。
治樹は台車を押して先導する。後ろについた赤間が、のんびりとした声を投げかけたのは、道程を半分ほどすぎたあたりか。
「正直言うとね、手嶋くんが学園祭でショーをすると聞いたとき驚いた。大会に出たのは、ぼくが無理に勧めたからだ。君は少し積極性が足りないと思っていたから、自ら舞台に立とうとしていることが信じられなかったんだ」
赤間の認識は、まったくもって正しい。治樹は苦笑する。
「ショーは断りきれなかっただけです」要請がなければ、学園祭で手品を披露するなど考えもしなかっただろう。「やろうと決めたのは、ちょっぴり悔しかったっていうのもあるんですけど」
「悔しい?」
「大会でもう少しうまくやれたんじゃないかって、ずっと思ってたんです。やっぱり、ダメなままだと悔しいじゃないですか」
学園祭で行うショーの構成は、大会と同じだ。あの日のリベンジをしようと、ひっそり心に決めていた。
「ほう」と、赤間は短く声をもらし、ポンと背中に手を添える。
振り返ると老マジシャンの柔和な顔に、穏やかなだけではない真摯な眼差しを灯していた。
「そばにいたはずなのに、手嶋くんが悔しがっているとは気づかなかった。感情を表層から消していたわけか。マジシャンにとって大切な要素だ。君は、マジシャンに向いているよ」
たとえ、お世辞であったとしても、うれしい言葉だ。これからショーを行う弟子には、最高の激励だった。
顔が火照り、にやけていくのがわかる――とてもマジシャンに向いているとは思えない、素直な反応が恥ずかしい。
それを気取られないように、治樹は少し歩調を速めた。きっと赤間は見抜いているだろうと思いながら。
やがて講堂が見えてきた。入口に向かう人波から外れて、ぽつんと一人でいる少女の姿も目に入る。待ち合わせの時間よりも、だいぶ早い。いつから待っていたのだろうか。
顔を伏せていたにも関わらず、彼女は治樹を発見して、ちまちまとした歩みで寄ってきた。が、後ろにいる赤間に気づいて、ぴたりと足を止める。
「早いね、丹羽さん」
声をかけると、前髪の奥から見上げる視線を感じた。わずかに口が動いたが、声は聞こえなかった。
薫は手にバニーの耳を持ち、手首にはビーズのブレスレットをつけていた。アシスタントのお礼に、治樹がプレゼントしたものだ。
「えっと、こちらは赤間先生。ぼくの手品の師匠なんだ」向き直り、紹介者を入れ替える。「彼女がアシスタントをしてくれる丹羽さんです」
赤間には、前もって薫のことを伝えていた。極端な人見知りなので、顔を合わせたとき失礼だと思われないように。
だから、赤間は平然と応対する。元々人当たりのいい赤間であるが、いつも以上に声色がやさしい。
「話は聞いているよ。手嶋くんのことを、よろしく頼むね」
ビクンと頭を揺らして、ほんの少し顔を上げる。まだ数日の付き合いでしかないが、薫が驚いていることはわかった。
おそらく「よろしく頼む」に反応したのだと思う。弱気な薫は、自分が誰かの助けになることを信じられないでいる。
「アシスタントはね、舞台に立つマジシャンの唯一の味方なんだ。君がいるだけで、手嶋くんの精神的な支えになる。そこいるだけでいいんだよ、そこにいて、ただ成功を信じてあげてほしい」
夫婦で舞台に立っていた赤間だからこそ、その言葉に重みを感じた。
薫は結んだ唇をほどき、「はい」と答えた。思いのほかしっかりとした声に、治樹は驚く。
「客席から見ているよ。がんばりなさい」
そう言って講堂に入っていった赤間を見送り、残った二人は顔を見合わせる。
「どうしよう。まだ時間に余裕があるけど、どこか見てくるかい?」
薫は小さく首を左右に振った。
「丹羽さん、お昼は食べた?」
眉を下げて、困り顔で首を振る。食欲がないということらしい。
何も食べないというのも問題があるように思えたので、治樹はひとっ走りしてバドミントン部の大福を買ってきた。部員の一人が和菓子屋の息子ということで、本格的な作りをしており、本年度軽食部門NO.1候補と聞いている。
事実満足のいく味わいで、食欲がない薫も思わず二つ目に手を伸ばすほど美味しかった。
「じゃあ、そろそろ準備に取りかかろうか」
裏口から講堂に入り、手品道具の確認をする。
ふと舞台袖に目を向けると、見知らぬメガネをかけた長身の男性がいた。私服姿なので部外者だと思うが、隣に立つ陽子が平然としているところを見ると、まったくの無関係というわけでもなさそうだ。
少し気になったが、詮索しているヒマはない。ちょうど演劇部の公演が終わり、一旦幕を下ろして弁論大会の用意に取りかかっている。片づけに忙しく駆け回る演劇部も加わり、舞台裏はてんてこ舞いだ。
隅で縮こまって落ち着くのを待っていた治樹と薫のところに、ふらりと吹奏楽部の藍がやって来た。
「次はあんたらの番だな。がんばんなよ」
ポンポンと、二人の肩をリズミカルに叩いて、藍は舞台袖に向かう。
急激に緊張が高まり、口の中の水分が失われていくのを感じた。ちらりと隣に目を向けると、薫の足がかすかに震えている。
手品ショーまで、あとわずか。耳に届いた弁舌が、まるで馴染みのない外国語のように不明瞭な音色となって聞こえた。
陽子が手を振って呼んでいる。声のみだったら、気づけなかったかもしれない。
「手嶋くん、丹羽さん、大丈夫?」
「う、うん、なんとか……」
青ざめた顔色を見て陽子は不安そうに眉をしかめたが、追及することはなかった。もう気にかけている時間はないのだろう。
「弁論が終わったら、暗転してすぐに片づけを終わらせるから、出られるように準備をしておいて」
「わかった」と、声にしたつもりだが、音となったのは「わ」と「っ」だけだった。
言葉を口にしないジェスチュアで進行するパフォーマンスなので、この際うまく話せなくてもかまわない――と、自分に言い聞かせて心を落ち着かせる。
そうこうしている間に弁論大会は終わりを告げて、拍手のなか舞台は暗転した。
生徒会役員と弁論参加者が使用した椅子とテーブルを片づけている。メガネの男性も手伝っていた。
「つづきまして、二年生の手嶋治樹よる手品ショーです。アシスタントは、一年生の丹羽薫がお送りします。どうか、温かい拍手でお迎えください」
陽子のアナウンスと共に、舞台にライトが灯った。
ついに出番だ、もう引き返せない。意を決して治樹は足を踏み出した。が、寸前でキュッと背中をつかまれて、一歩目を進めることに失敗した。
ぎこちなく振り返ると、いまにも泣き出しそうな薫がかじりついている。その顔を見た瞬間、治樹のなかでストンと腹の底に動揺が落ちていくのを感じた。
「大丈夫だよ、何も心配することはない。ぼくがついている」
たとえ自分がどうなろうと、彼女を不安にさせるわけにはいかない。その使命感が、治樹を緊張の縁から押しとどめた。赤間が言っていた、アシスタントは精神的な支えになるとは、こういうことなのだろうか。
「行ってくる!」
舞台に飛び出し、両手を広げて頭を下げる。観客の拍手を浴びながら、一呼吸おいて、ハンカチを取り出した。
観客の目が、吸い込まれるようにハンカチに集まっていくのを感じた。動きにメリハリをつけることで、注目点に視線を誘導する――赤間の的確なアドバイスが作用していた。
ハンカチを大きく振り、一輪の赤い造花に変化させる。拍手が起こる。
今度は花を振り、弾けたように大量の花びらを舞い散らせた。先ほどよりも、大きな拍手がわき起こる。
一礼したところで、薫の登場だ。それが合図となっていた。
伏し目がちに舞台に踏み出した薫の頭には、二本のウサギの耳が揺れていた。無理につける必要はないと言っておいたのだが、律儀に装着している。
薫は道具のリングを差し出す定位置の前で足を止めた。舞台の空気に飲み込まれて、思うように動けないようだ。緊張でアゴ先に大量の汗が滴っている。
治樹はわざと、定位置にあるものと見越して、手を伸ばし――空振りしてみせた。大げさなリアクションが功を奏して、軽い笑いが起こった。
「大丈夫だよ」と、笑顔で彼女にだけ聞こえるようにそっと言って、二つのリングを受け取る。
この切れ目のない二つのリングを、軽妙につなげ、外し、またつなげて、再び外す。リングを操るたびに歓声が届いた。
最後に片方を大きく上空に放り投げ、落ちてきたところをリングをつなげて受け止める段取りとなっていた。が、放り投げた瞬間、練習よりも高く上げてしまい、内心おおいに焦った。
「っと!」
思わず声がもれそうになって、慌てて力任せに口を閉めた。声のなりそこないが鼻息として吹き出し、ほんの少し鼻水がこぼれる。
カシャンと音を立て、かろうじてリングをつなげることに成功した。治樹は二つのリングを掲げながら、こっそりと鼻水を拭う。
次は小さなテーブルとステッキを使ったマジックだ。よたよたと道具を手にしてやって来た薫と、道具を交換する。今度はちゃんと定位置に来てくれた。
笑いかけたが、そそくさと戻っていった。こちらを気にかけている余裕はなさそうだ。
治樹は舞台中央にテーブルを設置して、ステッキをくるくると回し、トンと床を叩いた。不発――何も起こらない。
首をかしげて、もう一度床を叩く。やはり何も起こらなかった。
テーブルから離れて、何度も首をかしげながら舞台をうろうろ動き回り、三度目の床叩き。
何も起こらない――そう思った次の瞬間、テーブルがコテンと倒れた。ドッと笑いが起きる。
照れくさそうに頭をかいて、テーブルを戻す。そうして歩きながら何気なくスッテキを床に当てると、再びテーブルがコテンと倒れた。笑いの波が大きくなった。
はにかんだ治樹はテーブルを抱えて、舞台袖に向かう。道具を取りに出てきた薫にステッキを渡し、二人して引っ込もうとしたとき――薫がステッキを落とした。
テーブルは治樹の手のなかでバラバラに壊れる。今日一番の笑いが巻き起こった。
壊れたテーブルを拾い上げて一旦舞台袖に入ると、興奮気味の陽子が親指を突き立てて笑顔を見せた。治樹も笑顔を返し、鳥のヌイグルミを手にして舞台に戻る。
これは糸を張ったヌイグルミを浮かせるという単純な手品だ。気づかれないように操作する技術は必要だが、タネ自体はありふれていた。
ヌイグルミを浮かせながら、ちらりと舞台袖に目をやる。薫が台車に乗せた水槽を運んでいた。陽子が手伝ってくれている。
今日は調子がいい、きっとうまくいく――そう自分に言い聞かせて、心を落ち着かせる。
ふわりとヌイグルミを手のなかに収めて、治樹は目線で合図を送った。ガチガチに固くなった薫が、ぎこちない動作で水槽を押して舞台に入ってくる。唯一やわらかそうな箇所は、頭で揺れるバニーの耳だけだ。
金魚が泳ぐ水槽の登場に、歓声が起こった。子供の観客がいるらしく、キャッキャとはしゃいだ声を上げている。
タネもシカケもございません――と、ばかりに、水槽をくるくると回して異常がないことを見てもらう。実際には、もちろんタネもシカケもある。
水槽の手品は、見栄えはいいがたいしたものじゃない。中央に円柱状の筒が入っており、そこに先ほど使用した鳥のヌイグルミを入れて、別物に取り換えるだけの手品だ。大会時は鳥のヌイグルミが生きたハトに変わるというタネを仕込んでおいた。
だが、今回は学園祭の催し物であることを考慮して、生物は控えて魚のヌイグルミを仕込んでいた。ちなみに、ヌイグルミは薫の私物だ。子供の頃に家族で水族館に行ったとき、買ってもらった物らしい。
水槽をセットすると、同時に照明が替わり治樹にスポットライトが当たる。クライマックスであることを観客に伝えて、緊張感を高めるためだ。これも赤間のアドバイスだった。
注目を一身に浴びながら、治樹は鳥のヌイグルミを大きく掲げて、水槽に沈める――正確には、筒に押し込む。あとは一旦手を抜き、頃合いを見て魚のヌイグルミを引き上げる段取りになっていた。
しかし、ヌイグルミを筒に押し入れた瞬間、考えもしなかった事態が起きる。
ピシリと小さな軋みが聞こえたかと思うと、水槽の一部にヒビが走り、割れ目から一条の水が噴き出したのだ。
「えっ?!」
治樹の理解が追いつく前に、ヒビはどんどん広がり、そこかしこから水が噴き出しはじめていた。まるで不規則な
知らぬ間に水槽は、耐久性を失っていたようだ――そんな当たり前の結論に達したとき、決定的な局面に行き当たった。
崩壊だ。水槽は砕け散り、水と金魚とガラス片をまき散らせながら、無残にも崩れてしまった。
治樹の頭は真っ白になって、何も考えられなくなっていた。焦点が萎んでいくような感覚を味わいながら、どうすることもできず立ち尽くす。
思わぬ展開に客席は静まり返っている。誰もが息を飲み、声を発せられないでいた。騒がしかった子供までも、押し黙っている状況だ。
「アヒャ、アヒャハハハハハハ!!」
突然、甲高い声が鳴り響いた。ぎこちなく声の方向に目を向けると、ひきつった顔の薫が必死に声を張り上げていた。
涙の浮かんだ歪んだ顔で、二本のバニーの耳を大きく揺らして、狂気じみた声を発している――それは、笑い声だ。笑い慣れていないので、異様な声となってしまったのだろう。無口で人見知りな少女が、この観衆が注目する舞台の上で、懸命に笑ってくれている。
「マジシャンはね、失敗したときこそ笑うんだ」そう言ったのは、治樹自身だ。
薫が失敗を挽回ようと言ってくれている。治樹は動揺を押さえ込んで、覚悟を決めた。
長年訓練してきた指先の力だけで、重なったヌイグルミの位置をずらし、魚のヌイグルミを引っ張り出した。
――反応は鈍い。まったくないと言ってもいい。
それは無理もないことで、水槽が割れたことに驚き、この状況の成否を判断できないのだろう。
だが、「ブラボー!!」の声と共に、一人が大きな拍手を送ってくれた。確認しなくともわかる、赤間だ。師匠が客席からアシストしてくれる。
赤間がつづけてくれたことで、次第に拍手は伝播して、その波は客席全体に広がっていく。おそらく何が起きたのか、ほとんど事情はわからぬまま拍手を送っているに違いない。でも、それでいい。わからなくたっていいのだ、これは手品なのだから。
「ありがとう、丹羽さん」渦巻く喝采のなか、そっと伝える。「君がアシスタントになってくれて、本当によかった」
一度は恥ずかしそうに顔を伏せた薫だが、少し間を置いて、ゆっくりと治樹を見上げた。そこには愛くるしいバニーの、控えめな微笑みが咲いていた。
麻智が言っていたことは正しかった。バニーガールは必要だ。
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