第25話
朝起きてリビングに顔を出すと、テーブルに食パンの袋を重しにしたメモ書きが残されていた。
時弥が目を通したのは最初の一行だけ。昨夜に聞いた話が、改めて書かれているのだとすぐに察した。
自営業共働きの両親は、どうしても抜けられない仕事があって学園祭には行けない――と、申し訳なさそうに言っていた。今年で最後の学園祭となる麻智の姿を見られないことを、心底残念がっていた両親には悪いが、時弥にとっては都合がいい展開だ。
「姉ちゃんはもう行ったのか」
人の気配を感じられない部屋を見回し、食パンをオーブントースターにセットする。冷蔵庫から取り出した牛乳で焼いた食パンを胃袋に流し込み、簡素な朝食を済ますと、手早く制服に着替えて時弥も出発した。
普段と違い搭乗者がまばらな日曜のバスに乗り込み、座席に身を預けてぼんやりと窓の外を眺める。つねに興奮と緊張が混ざり合った感覚が腹の底にあって、気持ちが一向に落ち着かない。
それは時弥だけではなく、他の生徒も同じなのだろう。最寄り駅で下りて、通学路を行く生徒の一団を見ると、ソワソワとした浮ついた足取りが目についた。
学園祭の看板が掲げられた校門を抜ける頃には、感情の揺らぎは一層際立つ。学校中に蔓延した気負ったような空気感に刺激されたのだと思う。
「よお、ついに今日だな」
教室に入るなり、顔を合わせた信太郎が言った。珍しく興奮気味だ。見開いた目が、引くくらいに妖しい輝きを発していた。
おかげで、時弥は少し落ち着けた。他者の強い感情を目の当りにすると、不思議なもので自然と冷静になる。
「まあ、楽にいこうぜ」
「時弥はお気楽でいいな。裏方だってぇのに、朝から緊張しっぱなしだぞ」
「俺だって緊張してる。信太郎のガチガチの顔を見たら、うまいこと肩の力が抜けただけだ。今日はずっと、その顔でいてくれよ」
信太郎は面白くなさそうに鼻を鳴らし、そっと紙ペラを差し出した。
今日のシフト表だ。表の下には、支障がある場合は実行委員に早めに申しつけください――と、会田秋穂の名義で書かれていた。
「時弥はシフトに何か口出ししたか?」
「いや、なんにも」
問題があっても、勝手に抜け出せばいいと考えていた。クラスの迷惑は、この際目をそらす。
「そうか、やっぱり……」
「何がやっぱりなんだ?」
首をかしげた時弥に、信太郎はシフト表を指差した。時弥が担当する時間帯だ。
「何も言ってないのに、割り振られたのは午前中だけ。俺もそうだ」
「ちょうどいいじゃないか。これの何が気になるんだ?」
「二人ともショーのある午後が空いてるいのは、都合がよすぎると思わないか。意図的なものを感じる」
「いくらなんでも考えすぎだろ」
笑う時弥を真面目くさった顔が見ている。信太郎は真剣に、何者かの意思が反映していると考えているようだ――それは、誰かにヌードショーの実施を知られていることを意味した。
結局答えは出ぬままホームルームがはじまり、担任教師による簡潔な注意事項が説明されると、すみやかに準備が進められる。
午前9時、「それでは、本年度学園祭を開始しまーす」と、校内放送で告げられた。ついに学園祭がはじまった。
訪問客がぽつぽつと校門を通る姿が窓から見える。まだ数は多くないが、これから増えていくことだろう。
クラスの出し物がパンケーキ喫茶というスイーツ提供を旨としたものであるため、開始直後は想定外にヒマだった。生徒も客もまったく寄ってくれない。閑古鳥が鳴いている状況に責任者の秋穂は不安そうだったが、11時を回る頃から急激に忙しくなり、瞬く間に教室は人で溢れ返った。
不器用すぎて調理係を外されて
どうにかこうにか割り振られた午前中は乗り切れた。時弥はほっと安堵するが――教室を見回すと、パンケーキ喫茶はいままさにピークを迎えようとしていた。
「どうする?」と、信太郎に声をかける。
「昼が一番忙しいだろうから、少し後ろめたいな」
「集合は体育館前2時だったよな。昼が終わるまで手伝ってやるか」
まだ時間に余裕があったので、さして悩むことなく仕事をつづける。一段落したところで抜ければいいと単純に考えたのだ。
しばらく自主残業に励んでいると、ふいに校内放送が流れた。午後1時からはじまる、講堂公演午後の部の告知だ。ちらりと時計を見ると、12時40分を指していた。
客入りは少し落ち着いてきた、そろそろ頃合いだろうか。そう思って信太郎の姿を探していると、偶然にも秋穂と目が合う。
彼女は驚いた表情を浮かべて、慌てて時弥の元に早足で迫ってきた。思わずたじろぎ、背をそらす。
「何やってるの、こんなところで!」
「な、何って、注文取ってた……」
「溝口くんのシフトは午前中だけでしょ。そんなことしなくていいよ」
さすがに、これにはムッとした。責められるようなことはしていないはずだ。
「忙しそうだったから手伝ってやったのに、なんて言い草だ」
痛みを我慢するように強く唇を結んだ秋穂は、軽く周囲を確認して、腕を取り強引に教室を出る。
「ちょっと待て、会田秋穂。何も引っ張り出さなくてもいいだろ」
「こっち来て!」
腕を取ったまま、秋穂はどんどん勝手に進んでいく。誰もいない場所を探しているようだが、あいにく学園祭中ということもあって、どこもかしこも人がいる。ようやく見つけ出したのは、教員用トイレ横の掃除用具を詰め込んだ物置だった。
「こんなところに連れ込んで、どうしようってんだ」
「溝口くん、あなたは今日、何かやろうとしてるんだよね」
ドキリとして、飛び上がりそうになった。不満をたたえていた顔が、動揺で強張っていく。
「な、なんだよ、それ……」
時弥の脳裏に、信太郎の言葉がよぎった。「意図的なものを感じる」
その意図を組み込んだのが、秋穂ということなのか。
「会田秋穂、どこまで知っているんだ?」
「どこまでって――そう言われると、何も知らないとしか答えられない。溝口くんが学園祭で何かやろうとしているのは、漠然と気づいてはいたけど、具体的なことはわかっていない」
どこまで信じていいものか、時弥は計りかねていた。
秋穂がウソをいっているようには見えない。そもそもウソをつく理由がない。でも、協力的になる理由も見当たらないのだ。
探りを入れる視線を浴びて、彼女は陰りを面差しに落としてわずかに顔をうつむかせた。まるでこちらがいじめているような感覚に陥る。
「わたしは、ただ溝口くんを応援したいと思っている。あのときの、お詫びとして……」
「お詫びだって?」思いがけない言葉に反応し、上ずった声で繰り返す。
「溝口くんはおぼえていないかもしれないけど、わたしは昔、君にとてもひどいことをした」
口のなかで、「あ」とかすかな声をもらす。よみがえったのは、小学生時代の思い出――時弥が秋穂に苦手意識を持つようになった事件だ。
鼓動が意識できるほどに鐘をかき鳴らし、喉がひりついて、こめかみにじっとりと汗がにじむ。途方もない緊張が押し寄せて、無意識に拳を握り込んでいた。それは、時弥にとって忘れることのできないトラウマだった。
「わたしは自分かわいさに、思ってもいないことを君に言って、深く傷つけた。そのことがずっと心に引っかかっていて、いつかちゃんと謝りたかった」
小学校五年のときにウンコをもらした時弥は、クラス中からバカにされていた。子供は残酷だ。ウンコという汚点によってヒラエルキーの最下層に叩き落され、バカにしていいものとして扱われるようになる。
時弥の場合はここでくじけず、抵抗するだけの気概があったのは不幸中の幸いか。かろうじて最悪の状況には陥ることなく、ギリギリのところで踏ん張れた。
だが、思いがけない事態によって、心を深く傷つけられる。
表立って蔑むことはなかったが、クラスの女子も言葉や態度の端々から時弥を見下していたのは確実だった。彼女達の存在は、直接からかってくる男子よりも裏でひっそりと浸透している分恐ろしい。
あるとき、クラスで複数の班を作ることになり、時弥と同じ班に選ばれた女子が「嫌だ!」と強く反発する事態が起きた。口にこそしなかったが、汚物を見るような目を向けられていたことをはっきりとおぼえている。
仲裁に入ったのが、当時もクラス委員だった会田秋穂だ。誰に対してもわけへだてなくやさしかった彼女だけは、女子のなかで唯一時弥を見下していない存在だと勝手に思い込んでいた。
秋穂は懸命に説得してくれたが、話し合いは一向にまとまらなかった。そこで行きついたのが、それならば秋穂が代わればいいという結論だ。
クラス全員の視線が集まるなか、彼女は震える声で言った。
「汚いから嫌だ」
いまになって思うのは、女子特有の同調圧力によって共通認識に反する意見を口にできなかったであろうこと。ここで反発するには、メスゴリラのようにたくましい精神性が必要となる。
しかし、そんな事情を考えもつかなかった幼い時弥は、大きなショックを受けて、班行動が行われる当日は熱を出して休んでしまったほどだ。ウンコをもらしても皆勤賞を継続させていた時弥が、小学校時代に唯一休んだのは、この日だけだった。
それから、秋穂に苦手意識を持つようになり、なるべくさけて行動するようになった。小中高と同じであるにも関わらず、言葉を交わしたのは数えるほどしかない。
「本当に、ごめんなさい。いまさら許してくれとは言えない、だから、せめてお詫びとして溝口くんの手助けをしたいと思っていたの」
秋穂との出来事は、時弥のトラウマの大きな部分を占めていることは間違いない。
心からの謝罪によって、ほんの少し救われたのは確かだ。うれしい――うれしいはずなのに、時弥は複雑な表情を浮かべていた。
「えー、それ、いま言う」
胸に溜まった反骨心を糧に突き進んでいた時弥にとって、この救いは心を揺らがせる足カセとなる。
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