第20話

 本日は講堂で練習できるということで、治樹は少し緊張していた。これまで赤間に借りた道具を使った練習はできなかった。使用法については高校生マジック大会で経験済みなので問題ないのだが、やはり本番と同じ舞台を使ったリハーサルとなれば気が張り詰める。

 でも、そんな緊張は運搬作業で吹き飛んでしまう。


「おい、しっかり持てよ、時弥!」

「そっちが上げすぎるからバランスが悪くなるんだろ。下げろ、正人。他のヤツのことも少しは考えろよ」


 騒がしいうえに、危なっかしい。

 陽子の指示で搬入口となる講堂裏に向かうと、状況はさらに悪化する。裏口はせまく、通路が入り組んでいて、細長い水槽を通り抜けるのに苦戦した。ぶつけては、そのたびに言い争いをはじめて、またぶつける――その繰り返しだ。


 どうにかこうにか道具置き場にたどり着いてからも大変だった。すでに演劇部の大道具小道具に占領されて、水槽の置き場所がなかったのだ。


「おい、早くしてくれよ。腕がプルプルしてる。ほら、プルプルしてる」

「てめぇ、ホントうるせえ。黙ってろ!」


 場所を確保するために、陽子が大急ぎで小道具を隅に寄せる。薫もぎこちなく手伝っていた。


「ここに置いて!」

「あっ、ちょっと待った――」空けたスペースに置こうとしたとき、治樹は大事なことを思い出す。「だ、台車ないかな。水槽を動かせるようにしておきたいんだ」

「そんなこと急に言われても……」


 陽子はオロオロと周囲を見回し、必死に探す。そう都合よくあるわけない――と思ったら、あった。

 ただし、折りたたみ式の押し手がついたタイプだ。


「そういうやつじゃなて、平べったいやつ。水槽の下に敷くから」

「えぇ、そんなこと言われても……」


 陽子はもう一度周囲を見回し、必死に探す。そう都合よくあるわけがない――やっぱりなかった。

 事前に台車を用意しなかった治樹の落ち度だ。


「駄目、もうマジで駄目! 一旦下ろそう、一旦だから一旦」


 真っ先に力尽きた時弥が、こらえきれず手を放した。ギリギリまで低い位置に下げていたので、それほど大きな衝撃はない。

 しかし、一人抜けたことで順次下ろしていくことになり、立て続けの衝撃が水槽に詰めていたケースを揺さぶった。内側から水槽のガラスを、ケースが何度も叩く。

 慌てて治樹は水槽の損傷を確認する。かすかなこすれた跡は残っていたが、ひびのような深刻な傷は見当たらない、ほっと胸を撫でおろす。


「貧弱すぎるぞ、時弥。壊れたらどうすんだ」と、正人が苛立った声を上げる。

「しょうがないだろ。昨日遅くまで特訓してて、寝不足なうえに疲れてんだ」

「特訓?」


 思わぬセリフに、陽子が引っかかった。不思議そうに時弥を見て、ゆるく首をかしげる。


「そ、そろそろいいかな。もう仕事は終わったんだろ」


 あからさまな動揺を顔に宿し、時弥はしどろもどろになって逃げるように離れていく。何やら怪しい態度に、仲間達が白い目を向けていた。


「えっ、ちょっと時弥くん?」

「じゃあな、鳥飼!」


 そのまま時弥は講堂を飛び出していった。信太郎達が後を追う。

 最後まで残っていた邦雄も、一声かけて出ていく。「丹羽さん、がんばって」と。


 呆然と彼らを見送った治樹は、ツンと袖を引かれて我に返る。視線を落とすと、ハの字に眉を下げた困り顔の薫が、遠慮がちに指を絡めていた。

 騒々しい運搬作業で気を取られて、すっかり頭から抜け落ちていたが、今日の練習はこれからだ。


「鳥飼さん、まだ時間ある?」

「うん、もう少し大丈夫だけど」

「だったら、いまから公演の通し稽古をするんで、客席のほうから撮影してくれないかな。どんなふうに見られるのか、チェックしたいんだ」

「わかった、撮影すればいいんだね」


 治樹はスマホを渡し、さっそく準備に取りかかる。薫には公演の流れを頭に叩き込んでもらっていたので、教えたとおり順番に道具を渡してさえくれれば問題なくやり遂げることができるはずだ。


 台車なしの水槽は移動できないので、今回は残念ながらお預け――どちらにしても他と違い下ごしらえに時間がかかるので、台車があったとしても試すことはできなかったと思うが。


「じゃあ、はじめるよ」

「はーい、こっちも撮影はじめます」


 舞台袖から飛び出した治樹は、軽い足取りで中央に進み、大きく手を広げて頭を下げた。

 学園祭を前にしてピカピカにワックスがけされた床板に、ぼんやりとした自分の姿が映し出される。舞台壇上から見える景色は、薄暗くはっきりしない。照明が舞台のみを照らしているからだけではなく、少なからず緊張によって視界にフィルターがかかっているのかもしれない。


 ――治樹はまずポケットからハンカチを取り出し、空中で軽く振ってみせる。

 次の瞬間、ハンカチは形を変えて赤い花を模した一輪の造花に変化した。


「おー」と、よく見えない客席から驚きの声がした。

 その声を頼りに陽子の位置を探りながら、造花を振ると――今度はパッと弾けて花びらが舞う。


 次はリングを使った手品だ。舞台袖からリングを手にした薫が、よたよたと出てくる。

 受け取る位置は前もって話してある。だが、薫のそのかなり手前で立ち止まり、リングを渡そうと差し出した。治樹の場所からは距離があり、受け取るのに手間取った。


 これは薫がうつむいて歩くために、正確な位置を確認できないからであろう。治樹はリングを手にしながら、声を出さず笑った。

 前髪の奥に、悲しそうな目が透けていた。


 リングの手品の次は、折りたたみ式のテーブルとステッキを使った手品だ。今度もやはり位置がズレる。治樹はまたも笑顔を作った。

 手品自体は問題なく成功し、ショーは滞りなく進行する。


 残す手品は二つ。クイマックスの水槽を使った手品はできないので、鳥のヌイグルミを浮遊させる手品が今回は最後となる。

 受け取り位置に向かうが、またまたズレていた――いや、薫は姿さえ見せていなかったのだ。舞台袖に目を向けると、ヌイグルミを抱いて立ち止まっている。


「どうしたの?」


 笑いながら声をかけると、わずかに顔を上げて涙に濡れた瞳を揺らした。


「わら、わらわない、で……」


 蚊の鳴くような声で、彼女は言った。懸命に、胸中に渦巻く思いを吐露した。


「笑うよ」笑顔のまま、治樹は答える。「マジシャンはね、失敗したときこそ笑うんだ」


 おそらく彼女は、自分のミスを笑われたのだと勘違いして、委縮してしまったのだろう。だが、そんなことではない。


「ぼくに手品を教えてくれている先生が言っていた。マジシャンは失敗したときこそ笑わなければならない。笑って挽回すれば、観客はそういう演出なんだと思ってくれる。手品は、案外融通が利くんだ。だから、ぼくは丹羽さんがミスしたら笑う。君のミスは絶対挽回してみせる」


 薫は呆けた表情で治樹を見て、唇を震わせた。何かを言ったらしいが、声は届かなかった。

 とりあえず、ごまかす。薫の口元にも、ささやかな笑みが浮かぶ。内心驚いたが、顔には出さない。じんわりとうれしさが染み渡り、自分一人で噛み締める。

 治樹は高鳴った鼓動を押し隠して、客席に呼びかけた。


「ごめん、鳥飼さん。もう一度アタマからいいかな」

「オッケー」


 通し稽古を再度はじめた。どうしても薫は受け取り位置からズレてしまうが、先ほどより近づいてきていた。もう数度練習をすれば、かなり正確な位置にたどり着きそうだ。

 最初の通し稽古の成果は、上々と言っていいだろう。


 ただ不安がないわけではない。観客が入ると、舞台の空気は変わる。あの緊張感に耐えられるかどうか――ちらりと薫を見て、治樹は笑顔を浮かべるのだった。

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