第9話
鳥飼陽子は悩んでいた。自動販売機を前にして、握りしめた百円玉が汗で湿るほどに。
一列に並んだパックジュースの見本パッケージを凝視して、どうしたものかと頭を抱える。
麻智の「ちょっとノドが渇いたなぁ」からはじまる、生徒会名物『雑用ジャンケン大会』に敗北した陽子は、生徒会計六名分の飲み物を買い出しにきていた。全員の注文を律儀にメモして、五人分は滞りなく購入を済ませたのが、問題は最後の一人の注文だ。
「イカちゃんのセンスに任せる」という麻智の困らせたいだけとしか思えない注文に、マジメな陽子は迷いに迷う。
麻智に困らされるのは、いつものことだった。ジュース選びなどかわいいもので、もっと過酷な無茶ぶりだって何度もあった。そして、過去最大級の無茶ぶりが、学園祭終了後に待っている。それを思うと、ジュース選びの失敗は怖くない。思い切ってボタンを押す――ガタンと音を立て、取り出し口にパックジュースが落ちてきた。
「生徒会に入ってから困ってばかりだな、わたし……」
卒業した前年度生徒会長だった兄に、人手が足りないと強制的に入会させられたのが陽子の生徒会活動のはじまりだった。昔から細かな作業は得意なほうだったので、与えられる仕事自体は苦にならなかったのだが、指南役として当てられた麻智との関係は、苦労と迷いの連続であった。
面白い人だし、やさしい面もあって大好きな先輩なのだが、ただ自分本位に行動することがあり、周りに迷惑を――特に、一番そばにいた陽子が迷惑をこうむることが多々あった。こんなムチャな人を兄が生徒会長の後継者に選んだときは、心底驚いたものだ。
「だって、麻智みたいなのが生徒会長になったら、マンガみたいで面白いじゃないか」とは、兄の談。
生徒会長になった麻智は、意外と言うと失礼だが、案外無難に会長業務をこなす。自分本位なだけではなく、周りにも目を配れる人なのだと知った。同時に、だったらさんざん困らされてきたのは「わざとかよ!」と、ふてくされたものだ。
「よっちゃんの困り顔かわいいから、ついやっちゃうんだよね」臆面もなく麻智は言う。さらに、生徒会の引退期限である学園祭の準備に取りかかるようになると、「次の会長はイカちゃんだから」と、後継を指名してきた。
代々生徒会長は指名制で、それを断った例はないと聞いている。陽子は過去最大級に困っている最中だ。
「ハア」と、知らず知らずのうちにため息がこぼれる。
ジュースを詰めた生徒会共同エコバックを手にして歩いていると、ふとトロンボーンの音色が耳に届いた。
校舎と体育館をつなぐ一階渡り廊下の周辺で、吹奏楽部が各パートごとに分かれて練習している。麻智の友人である吹奏楽部部長の藍の姿もあった。
藍は何やら難しい顔で後輩の演奏を聴いて、気になる点があったらしく途中で止めるとダメ出しをはじめた。
「あんたら、そんな演奏で三年に恥をかかす気か?」
「はッ、スンマセン!」
「大会じゃないからって気ィ抜いてっと、痛い目見るよ。特に大会に出れなかったサポート組は、この演奏会が次の試金石になる。気合入れろよ!」
「ハイ!!」と、後輩全員が声を合わせて答える。
まるで運動部のような激だ。噂には聞いていたが、吹奏楽はゴリゴリの体育会気質というのは本当らしい。
藍にしても、時おりフラッと生徒会室に遊びにくるときとは違う。勝気なのは変わりないが、これではまるで鬼軍曹だ。
「三年集合!」
藍は三年部員を呼び集めると、ぐるりと顔を見回してニヤリと笑う。三年間苦楽を共にした仲間には、ほんの少し普段の顔を覗かせた。
「わたしは学園祭だからって手を抜く気ないよ。最後の演奏なんだ、もちろん気持ちは同じだよな」
三年生は当然だと言わんばかりに呼応する。結束は固い。
それにしても、以前生徒会室で話していたことと、まるで正反対だ。「お遊び」と言っていたはずが、本気になっている。
だが、よくよく考えると、当然のように思う。友人の前ではふざけていても、大事な最後の演奏会を三年間がんばってきた人がないがしろにするわけがない。テスト勉強をしていないとウソを言う心理と、似たようなものだろうか――と思い立ったが、ちょっと違う気もした。
実際の気持ちがどうだろうと、麻智と近しい陽子に知られるのは気まずかろうと思い、声をかけずその場を離れた。
じっくりと学園祭の空気に染まりはじめた校舎に入り、生徒会室に戻る。
その道中に、どこかソワソワとした会田秋穂とばったり出くわす。
「あっ、鳥飼さん……」
「どうしたの、会田さん」
クラスは違うが、学級委員である彼女とは顔見知りである。
「えっと、そうだ。うちのクラスのパンケーキ喫茶、企画とおりそうかな?」
「正式発表は土曜になるけど、たぶん大丈夫。喫茶店系は結構かぶりがちなんだけど、今年度は運よく各学年一クラスずつの申し込みだったから問題ないと思うよ」
「そう、よかった……」と、口にしたが、あまりうれしそうではなかった。他に何か心配事でもあるのだろうか。
不思議に思って見つめていると、少しぎこちなく彼女は笑う。
「あのね、うちのクラスの溝口くん知ってる? 生徒会長の弟なんだけど」
「時弥くん、知ってるよ」
秋穂は戸惑いとためらいが入り混じった表情で、にじり寄って顔を近づけてきた。思わず腰が引ける。
「彼、学園祭で何かやろうとしてるの?」
「そういう話をしていたけど、出願書はまだ提出されていないから、何をするかはわからないな」
「そうなんだ……」
「時弥くんがどうかしたの?」
秋穂は力なく首を振って、なんでもないと身振りであらわす。が、何か気になる点があることは言わずともわかった。
引っかかるものはあったが、彼女が口にしない以上、問い詰めるのはためらう。いつか教えてくれると――学園祭が関わることなら、案外近いうちにわかるだろうと――信じて、今日は何事もなかったように別れた。
生徒会室に戻り、買い出しのジュースを配っていく。
「おっそーい、どこで油を売ってたの」
待ちわびていた麻智に、緊張の面持ちでパックジュースを手渡した。今回選んだのは、バナナジュース。どろりとした濃厚すぎるバナナ味は、一部の好事家に愛されているが、一般的にはあまり人気のないジュースだ。
「どうでしょう?」
「書類仕事で頭が疲れていたんだ。ちょうど甘いものがほしかった」どうやら、お気に召してくれたようだ。「さすがイカちゃん。わたしが見込んだ後継者なだけはある!」
ふれたくない話題なので、苦笑を返してごまかす。陽子はそそくさと仕事に戻った。
学園祭は来週の日曜日――やらなければならないことは、まだまだたくさん残っている。
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