後編

 俺たちはロビーのソファーに腰かけた。

 ここは、会場とはドア一枚挟んだだけであるが、会場の喧騒をほとんど遮断している。気まずい静寂が訪れる。もう少し騒がしければいいのにと思う。賢一がどんな顔をしているのかは分からない。見ることさえ躊躇ってしまった。大きな椅子に小さく腰かけた俺が彼に話しかけることにも暫く時間を要した。

「なあ、お前本当に治んねぇのかよ」

 その時、賢一の顔を初めて見た。ひどく悲しげな顔。

「それ聞くの、何回目だよ。僕はもう末期だって」

「でも、海外の病院とか、違う医者にあたってみるのも――」

「それもお前から何回も聞いた」

 賢一は食い込み気味に言った。

「あっ! そうだ、漢方とかは……」

 これ以上何か言うのが憚られて、俺は意気消沈する。本当にあきらめるしかないのか?

 賢一は俺の肩にポンと手を置いた。彼の表情は見慣れたものに戻っていた。

「達樹、ありがとう。お前が親友で本当に良かったよ。初めて会った日のこと、日が暮れるまで遊んだ小学生の時のこと、中学の時にバレンタインのチョコの数を競ったこと、高校の時にサッカーで全国行ったこと、一緒に大学受験乗り越えたことも、一緒に初めて酒を飲んだ日のことも、全部忘れないから。死んでもお前との思い出は忘れないから。だからさ、いつものように笑ってくれよ」

 お前にそんなこと、言われたら――俺の中で抑えていたものが堰を切ったように溢れて、流れ出した。

「おいおい。だから、笑顔になってくれって……」

 俺は頬を伝う雫を必死に拭ったけれど、次々と溢れ出てきてしまうから、とても追いつきやしなかった。

「もう行こうか。そろそろビンゴ大会が始まる」

 賢一の口調は、まるで子どもを宥めるかのように優しかった。



 その後のビンゴ大会は、よく覚えていない。

 司会者が番号を読み上げる。参加者が一喜一憂して声を立てる。全部、とおくで聞こえた。俺はビンゴカードの該当箇所の穴をあける。指で突き破る度に胸が張り裂けそうになる。ぽっかり空いた穴はまるで俺のようだ。ふと気が付くと、五つの穴が横一列に並んでいた。

「ビンゴの方はいらっしゃいませんか?」

 司会者の声が会場に響く。俺は慌てて前へ出る。俺は会場の後ろの隅にいたため、司会者の下へ行くまでに多くの視線を浴びた。目が赤く腫れたままだったろうが、気にしないことにした。司会者は俺をステージに上がるよう言った。それと、俺は一人目のビンゴだったらしい。そういえば、景品は何だろうか。何も聞いていなかった。

「景品はご本人より贈呈されます」

 司会者の進行で、上手から賢一が徐に歩いてくる。見たところ何も持っていない。

「ほいよ。おめでと」

 そう言ってポケットから何かを取り出して俺に渡す。――鍵だ。

「景品はなんと! 安田賢一の愛車でございます!」

 司会者が高らかに言い放った。

「え? お前の愛車って……あの高級車だよな? 本当にもらっていいのか?」

 最近、賢一が保険金で車を買ったと言っていた。彼が治ったら乗るのかと思い、その時俺は喜んだが、まさかこのためだったとは思わなかった。

 面食らった俺に、賢一は破顔する。

「ああ、お前がもらってくれるなら本望だよ。……てか、お前話聞いてなかっただろ? これは『形見ビンゴ大会』。ぜひ使ってくれよ」




「さて、宴もたけなわですが、そろそろお開きと致したいと思います。最後に安田賢一から皆様に閉式のご挨拶を申し上げます」

 司会者の声に会場は静まっていった。

 形見ビンゴ大会が終わってから、また暫く交流の時間が設けられた。長いようで短かったパーティーはとうとう終わりを迎える。

 賢一がいつものように上手から(けれど最初よりもずっと遅い歩みで)出てくると、それに合わせて彼の好きな曲が流れた。彼に勧められて俺もよく聞いていたし、二人でカラオケに行けば、一緒に歌った思い出の曲だ。しかし、今は何だかいつもとは違って聞こえる。まるで、哀しげなエンディングテーマみたいだ。

「皆さん今日は本当にありがとうございました。楽しんで頂けたでしょうか? 僕は人生で巡り合った人々に感謝を伝えられて非常に満足しております。今日ここに集まってくれた人々が、僕が生きた証そのものです」

 賢一はさらに続ける。

「ご存知の通り、僕は末期がんを患っております。もう治りません。クオリティーオブライフを優先し、延命治療を止めました。今は医療麻薬なんかに頼って、立って歩けていますが、本当はもう体はボロボロで歩くこともままなりません。……親友には反対されたんですけどね。最後まで生きろ、諦めんなって」

 俺のことだ。入院している賢一の見舞いに行ったある日、この話を聞かされた。何度も止めようとしたが、賢一の意志は固かった。

「僕はベッドに横たえたまま死にたくなかったんです。無理に生きて死を待つくらいなら、最期に何かしたかったんです。僕が生きた意味とか証とか、確かめたかったんです。……桜は散り際が最も美しい。人間もまた、命が散ろうとする時に美しい輝きを見せるのかもしれません。どうか、最期まで見届けてください」

 賢一は肩で息をして話すのがやっとという感じだった。もしかすると、その薬とやらが切れてきたのかもしれない。

「これより安田賢一が最期の時を迎えられます。皆様、どうか拍手でお送りください」

 司会者の空元気な台詞は会場と馴染めずに行き場をなくしていた。


 そう――彼は今日、死ぬのだ。

 あのハガキの最後にはこう綴られていた。


『――しかし当日、私は式の最後に、皆様の前で機械を用いて安楽死する所存でございます。私は末期がんです。もう回復は見込めないでしょう。

 もちろん、快く思われない方も多くいらっしゃると思いますが、人生の最期は大好きな人たちの前で迎えたいという私の望みにご理解、ご協力をお願い申し上げます。』


 ステージ下手から件の機械とやらが運ばれてくる。流線型のデザインで、ちょうど人が一人入れる程の大きさ。中の様子は窺えないようになっている。何も知らない人が見れば、体験型ゲームのマシンや未来の乗り物だと思うだろう。しかし、あれは苦痛を与えないための安楽死マシンだ。前に賢一がオランダ製だとか言っていた。

 賢一はそれをじっと見つめている。今、何を考え、何を思っているのだろうか。俺には分からないが、その顔に恐怖や迷いの色は見えなかった。

 賢一は演台のマイクを手に取り、不安げな足取りで見つめる先へと向かう。

「賢一!」

 思わず叫んでいた。賢一は俺の方を見て、こんな時でも笑顔を見せる。それはひどく美しくて、命の輝きの片鱗を見た気がした。何かがまた込み上げてきそうで、ぐっと堪えた。

 賢一はゆっくりと機械の中へ消えていく。

 この機械は、中にあるボタンを押すと内に窒素が満ちる仕組みらしい。そして、一分程で気を失い、五分後には事切れる。賢一がすでにボタンを押したかどうかは分からないが、マイクを通した声が聞こえてくる。

「本音を言うと、僕はまだ死にたくありませんでした。まだやりたいことはたくさんありました。それじゃあ僕が不幸かというと、そうでもありません。楽しい人生でした。それは、言うまでもなく皆さんのおかげです。幸福な死に方ができるというのは、人生の中で最も幸福なことなのかもしれません。……これから皆さんは日常に戻っていくけれど、たまに思い出してくれたら、幸せなことです。もうそろそろ時間か……。最後は、やっぱり……『ありがとう』――――……」


 賢一はそれっきり何も言わなくなった。






 季節は巡って、春は何度でもやってくる。今年も変わらず桜は咲き誇る。

 桜並木道の水たまりに、雨上がりの青空が広がり、虹が架かる。一陣の風が吹き抜けて、枝をゆさゆさと揺らす。その花びらが俺の頬を撫でて、散っていった。

 彼の笑顔が目に浮かぶ。悲しみはなく、懐かしさが胸に残っている。俺の心の中で彼は生き続けている。

 俺は桜に向かって、幸せを祈った。

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桜散るエンディング 北谷 四音 @kitaya_shion

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