第2話 彼はまるで騎士のよう

 フィスカール王国首都シェナーン。それがエリシュナ=ラムブレヒトの生まれ育った故郷の名前だった。


 未だうら若きエリシュナにとっては、半生の全てと言って過言ではない都市だ。父・バプティストがいて、体が弱かったために自分を生んですぐに天へと旅立った母・クサヴェリアの墓地があり、生まれついて神の力を感じる力があったため、ごく幼い頃から通い僧侶としての太陽神殿シュネーヴィーゼ支部そして何より専属戦士のルースと出会った生まれ故郷なのだから。


 エリシュナがルースと出会ったのは、忘れもしない六歳だった頃の夏。寒冷の厳しい地方にあるフィスカール王国にとって、あらゆる実りがごく短い間に花開く大切な時期。


 エリシュナが、かつて食用として取り寄せられた筈が『食べちゃうなんて可哀そう』と、結局ペットにしてしまった毛豚のストラッピと屋敷の中庭で遊んでいた元に、父に伴われて連れてこられてのこと。


「エリー、挨拶なさい。この人が今後、我が家と、何よりお前の安全を命がけで守ってくれる、戦士のルースさんだ」


 父よりエリーの愛称で呼ばれた美少女は、自分と同じ色の髪をした青年を見上げた。


 貴族が私兵を養うのと似たように、富裕層の人間が腕に覚えのある者を自家の警護のために雇うのは別段珍しいことではない。珍しかったのは、雇った相手に一定の敬意を持って接するよう、自分の娘に教えたバプティストであったろう。王宮や貴族にではなく、単に資金に困らぬ富裕の家に雇われる戦士というのは、腕に覚えはあっても身分は高くない者がほとんどで、そういった者に礼を尽くすような金持ちはそういない。むしろ、貴族のように上から見れる相手がいると、威張り散らす金持ちの方が割合としては多いだろう。



「お嬢様。私はお父上から特別な温情を賜り、今日からこの家に務めさせていただく者で名はルースと申します。頭の片隅にでも、ご記憶いただければ幸いです」


 髪、目、鼻、口、輪郭、背丈……外見は、どこひとつとっても欠点と言うものが存在しない。


 裕福な家の娘として箱入りに育てられたエリシュナには町の同年代の少年たちとは付き合いはなく、異性といえば父のバプティストと太陽神殿の司祭たちくらいしか知らなかった。それはどちらかと言えば、エリシュナにとっては異性というよりは大人たちであったろう。


 だが、ルースは違った。まるでその時よりも幼い頃に読んだ、おとぎ話に出てくる『悪い魔法使いにさらわれたお姫様を助けた騎士』のように、優美さと頑健さを兼ね備えていた。


 社会的な地位や富を選定項目から排し、純粋に一個の男としてみた時には、この上は望みようがないというくらいの申し分ない、まさに"美丈夫"の呼び名にふさわしい異性。箱入りで年端のいかないエリシュナにとって、それはまるで赤子に酒精をいっぺんに飲み干させるかのような、免疫のない物が注がれるような感覚──


 一目惚れ、だった。


 顔に血が昇り、朱に火照る様が、他人の顔を見ているかのように自覚できた。自覚できたがゆえに、気恥ずかしくなった。その年齢の相応以上の水準で神学を理解し、すでにして神の奇跡の一端をこの現世に具現できるようになっている明敏な頭脳が混乱をきたす。


「私は、エリシュナっていいます」


 それだけを言うので精一杯。それとても、流暢にとはとても言い難い。たどたどしく、まるでそれこそ人見知りの童女にでもなってしまったかのようなたどたどしさ。そんな態度になってしまう自分がまた恥ずかしくて、エリシュナは加速度的に自縄自縛に陥ってしまう。


 しかしそれは恋であったから、理屈ではなく本能の部分で、父に助けを求めることもできなかった。経験が圧倒的に不足していて自分ではどうにもできないのに、この麗しさと逞しさを兼ね備えた美丈夫には、そうとは知らずに自分と言う"女"単身で向かい合いたいという欲が生まれていたのだ。


 このままでは時間だけが過ぎ、どんどん気まずくなってしまう──これ以上ないというくらい、気恥ずかしさと焦りで混乱するエリシュナに救いの手を差し出したのは、他ならぬその初恋の君であった。


「突然のことで、驚かせてしまったでしょうか。それならばとんだ失礼を」


「いえ、あの、そんな、ことは」


「雇われた傭兵の身ではありますが、バプティスト様の多大な温情から共に夕食を取る許可をいただきました。もしお許しいただけるなら、同伴させてください。お嬢様がご不快であれば、もちろん私めは遠慮させていただきます」


「い、いえ! 嫌なんてことは、絶対に──」


 絶対に、のあとが続かない。過呼吸になって、息が苦しいほど。消えてしまいたい、というくらいエリシュナは恥じ入ったが、ルースはそんなエリシュナに微笑んで『ありがとうございます、お嬢様』と一礼した。


 ……そこまでが、エリシュナが思い出せるルースとの出会いだった。


 そこから先、その日の夕食はおろか、数日間の記憶すら思い出すことは叶わない。まるでその身が羽毛になってしまったかのごとく浮遊感が五感を支配して、現実味がまったくなかったからだ。夢の中の出来事だったようだ、とすら思える。


 だが、ルースがその日からラムブレヒト家に仕えることになったこと。一富豪の用心棒に収まる者とは思えぬ程、礼節を修得していたこと。そしてなにより──


「ルースは、私をまるでお城の姫様のように大切に扱ってくれました」


 それが稀有なことであることを、ごく最近までエリシュナは知らなかった。腕のみが自慢の無頼の輩など、なかなか主家の娘にまで礼節を行き届かせることはできない。もちろん無礼を働くような愚か者は、そもそも中々雇われたりはしないが、無神経な言葉でイラつかせることなどはザラであるのだと。殺すか殺されるかの剣士の世界、殺伐として礼節に重きが置かれないのは当然のことだった。


 その中で、である。ルースは最大限、自分に気遣ってくれていることが肌で感じられた。しかしそれを、何故、と本人に聞くことはエリシュナにはできなかった。


 お父様の娘だから、と言われたくなかったから。


 普通に考えれば、それが当たり前の返事。そう考えるしかない答えの筈だった。


 しかし嫌だった。大切にされている理由が『父の娘であるから』とは思いたくなかった。


 一人の女として、ルースに大切にされていると信じたい──


 身の毛もよだつほど恥ずかしい願い。その願いを抱いたこと、今なお浅ましく抱き続けていることは、終生秘匿し墓場にもっていく覚悟。


 答えを聞かなければ、ずっと夢想していられる。ずっと、自分はルースの姫なのだという夢を見ていられる。だから聞かなかった──などと、恥ずかし過ぎて口が裂けても言える訳がない!


 そうして、胸に初恋を秘した乙女と、麗しき美丈夫との生活が始まった。


 ルースが来たことで、母のいない家の中の雰囲気は一変した。ルースは騒々しいという単語とは無縁の若者だったが無口な質でもなく、父親のバプティストや使用人とはよく話をした。エリシュナはルースに恋をしてしまっていたから、最初はとてもまともに顔を見て話すことなどできなかったが、それでも時が経つに連れて慣れ、普通に会話が出来るようになった。恋する若者が、さらに頼れる年上の兄のような存在にもなった訳で、エリシュナのルースへの想いはいよいよ募る一方となっていった。


 だが、それでもまだ、エリシュナのそれは恋愛よりは憧れの領域に半分以上とどまったものであったろう。未練こそ残ろうが、まだ諦めがつかないような段階ではなかった。


 それが、決定的になる出来事があった。エリシュナはその時、十二歳。バプティストは商用で屋敷を留守にすることになり、ルースもその護衛として共に屋敷にいなかった。


 本当なら、ルースはエリシュナの護衛として屋敷に残る筈だったのだが、十二といえば女子であればすでにませている年頃。傍にいてくれるのは嬉しいが、子ども扱いされた結果としてとあっては話は別である。いつまでも、ルースから御守されているかのような状況は嫌だった。


「お父様、私は屋敷にいるのですから大丈夫ですわ。ルース、外出するお父様をこそ、守ってさしあげて」


 その頃になると、さすがにエリシュナもルースに物おじせず話せるようになっていた。


「しかし、お嬢様」


 反論しかけるルースを、エリシュナは他人からはそれと分からないくらい微かに頬を膨張させる。


「ルース、私のお願いを聞いてくれないの?」


 この頃になると、ルースの方も自分を憎からず思ってくれている──少なくとも、エリシュナにはそう見えた──と感じていたから、多少の我がままなりが出るように、出せるようになっていた。エリシュナの母が、母としてエリシュナを見守ることかなわずして早逝し、男手ひとつで育ててきたバプティストはそんな娘の変化を喜んだ──多少、複雑そうに。


 ルースとしては、そう言われたからとて『はいそうですか』と頷く訳には、無論いかなかったろう。実際、金髪の青年は困ったような顔をしていったものだ。


「しかしお嬢様、私はこの屋敷の警護のために雇われたのです。私の一存では……」


「私が、こうして、お願いしてるのに?」


「いえ、私個人として断りたいということではなんいのです」


 ルースが、父の断りなく自分の頼みを聞くことができるような立場にはないことなど、エリシュナはとっくに理解できる年ごろだった。しかし、それを曲げて自分の頼みを聞きたそうにするルースの姿を見る事が、何ともエリシュナの乙女心の嗜虐的な面とでもいうべきものが満たされる。それは、惚れた男には全世界を引き換えにしてでも自分の方を選んで欲しいとの、人類の雌体であれは心底に誰もが持つ願望の発露であったろう。


 ルースが、そんなエリシュナの可愛い我がままに翻弄され困っていると、バプティストが助け舟を出す。


「エリシュナ、あまりルースを困らせるものではないよ」


「でもお父様、お父様に何かあったら、結局私も、ルースだって雇用主の一大事で困ることになりますわ。私の言うこと、間違ってますか?」


「いや、間違ってはいないがね。お前の身に何かあったら、私は仕事どころではなくなってしまうということくらいは、理解してくれているだろう?」


「それなら、反対も同じです。お父様の身に何かあったら、私だって生活どころではなくなってしまいますわ。どうか、ルースをお連れください。私の安心のために」


 そう言われては、バプティストも返す言葉はない。実際、外出するバプティストと屋敷に残るエリシュナ、どちらがより危険かとより言われればバプティストに決まっている──普通に考えたならば、だが。バプティストもルースも仕方なく、娘、ないしは主の令嬢の言葉に甘んじ、二人ともう一人、商業面でバプティストを支える番頭の三人で商会の会談へと向かうことになったのだった。


 屋敷に残されたエリシュナは、展開が自分の望み通りの形となって、さぞその心は喜びを得たか、というと、


「(ルースと二人で、屋敷にいたかったな……)」


 と、矛盾も極まるため息をついていた。エリシュナが二人きりになりたくなかったのは『自分を子ども扱いする』『自分を主の娘としか見ない』ルースであって、ルースと二人きりになること自体は、むしろ心から渇望していると言って良い。その辺、この時のエリシュナは実に、女子らしい煩雑な願望を抱いているのだった。もっともそれは複雑な乙女心というよりかは、単に子供のわがままの類であったろうが。


 そうして、一人エリシュナは屋敷で留守番をすることになった。この時、使用人も買い出しのために屋敷にはいない。幼い頃より神に見出されたとされ、太陽神殿に通い、神に仕え、貧しい人々を救済する道徳性を教わってきたエリシュナは、裕福な出身であれど奉仕活動に従事することに倦怠感や嫌悪感を抱かず、本来なら使用人の仕事を自ら進んでやったから、そう多くの使用人はラムブレヒト家に必要なかったからである。数年後、成人したエリシュナは「富める者は富まぬ者を雇い仕事を与え養うべし」という考えがあることを知り、幼い頃の自分は使用人となれる者たちの仕事を知らず奪っていたのではないか、と内心悩むことになるが、それはまた別の話。この頃は、この世にはもっと深刻な事実があり、それに気づいていなかったことこそが問題だった。


 裕福な者の家が留守になったのを見計らい、押し込もうと計画する犯罪者たちがこの世にはいるのだ、という当たり前の事実、その問題を。

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