惑乱の女帝
翠梟
第1話 それはまるで夢のよう
──それが物語なら、そのような展開もありえたかも知れない、と、エリシュナは思った。だからこれは夢なのかもしれない、とも。
髪は秋に実りきった麦畑がごとき、命と黄金の輝きに濡れるロング。瞳は宝石を磨くことに生涯を捧げた研磨師が、命を投げ捨てて磨き上げたかのごとき翠玉。何者の土足にも冒されていない、降り積もったばかりの新雪のような肌。『美少女』という言葉が内包する範囲の可憐さ・美しさからは遥か上方に逸脱した、この世ならざる水準の佳貌。今この瞬間を夢と見紛う少女エリシュナこそが、未だ彼女を知らぬ人間が一目見て夢かと錯覚する存在であったろう。
そんなうら若き佳人の瞳に、映る人影は五つ。内二つは突っ伏し、床の色を逢魔時のそれに染め、内二つは敵として得物を構え、ひとつは味方として自分とふたつの影の前に立っていた。エリシュナが今しがた聞いた敵の言葉に虚偽が混入されていないなら、倒された二人とあわせ、その全てが敵であっておかしくはなかった。が、ひとりは味方となった──なってくれた。なってくれたのだ、何の得にもなりはしないのに、命も地位も、全てを投げうって。
本気……否、正気で陛下を裏切るか、ルース? 敵影のひとつが、自分たちの味方からエリシュナの味方へと転じた裏切り者に問いかける。
それに、ルースと呼ばれた男は答えて曰く、
元より。あのふしだらな我が祖国の蹂躙者に剣も魂も捧げたつもりはない。私とあの女は事の始まりから敵同士、裏切りなどという言葉は不本意極まる、と。
瞬間。二人の影から放たれていた殺気の量が爆発的に膨らみ、ルースと呼んだそれとの距離をにじり寄って縮める。裏切ったにとどまらず、聞くに堪えぬ侮辱の言。もはや語る言葉もなし、ということなのだろう。
三者三様、戦い方は違えども実力は伯仲という。それだけの練達者が選ばれ、エリシュナに差し向けられたのだ、と。うち二名は、始まりに切り付けられたことで不意をつかれ、不意を突かれた仲間の絶叫に戸惑っているうちにルースに切り倒された。とすれば、今は完全に態勢を整えたニ人に対しこちらはルースひとり。勝敗は目に見えていると思われた。
だが、ルースへのあまりの憤怒、それがゆえのあまりの殺意に、冷静さを逸したか。一人はお世辞にも練達者のそれとは言えない愚直な切りかかりをし、代償として全てを失った。
紙一重で交わしたルースに、すれ違いざま胴を鋼で払われる。それで、ルースが態勢を整えて一対一。五分と五分、その筈だった。
だがそうではなかった。
最初の影は、ルースの態勢を崩させるための、言わば囮。愚直な切りかかりをした一人を隠れ蓑に、死角に位置して移動していた最後の一人から、態勢の整わぬルースに刃を打ち込まれる。
態勢とタイミング的に、ルースはかわせない。これで急遽現れたエリシュナの盾は消滅し、影は任務の遂行に移れる──
──筈であった。
だが、その当の被害者が、被害者のままではいなかった。一連の光景を見ている間に、エリシュナは必要な手印を切り、神霊への祈りの文言を終わらせている。
エリシュナは、ただ佳人というだけではなかった。幼き頃よりその素質を見出され、僧院に通い神の道の深奥、その力の一端を現世に具現する僧侶でもあった。
それは神に仇をなす者を撃滅するための威力──ではなく、また、神霊に仕える者の最大の特徴である、自他を癒し治す力でもない。
魔法光。魔法的な明かりを発し、暗闇を打ち破るごく単純な霊力。元来、自らに敵意を持った相手をどうこうするような霊力ではない。
だが、位置的に。ルースの背に守られ、敵影が前にあるこの場合には有効だった。
完全に目を閉じるような失態は犯さない。その程度の失敗をする者に、今、この場で任務を授かりここまで来ている無能者はいないのだろう。しかしそれでも、まったく目をしかめさせずにいることもできなかった。何より、いまこの死のやり取りの最中、標的に過ぎない筈の小娘がそのような霊力を発動してくることが、想定の外にあったのだろう。
練達を自称した相手の敗因を求めるとするなら、実はこの場はニ対一ではなく二対二だったこと。今まさに自分たちがさらおうという、いとか弱き標的が、自分たちの仇となるなどと考えられなかったことにあるだろう。完全に油断、慢心の類である。
そしてそれは、エリシュナたちの勝利を意味した。
魔法光によって視力をわずかとはいえ阻害された相手はルースにそれを見切られ、打ち込んだ刃をかすらせるかすらせるにとどまり、対してルースは背後で輝いた明かりに目を囚われることなく、相手の首を切り落とすことができた。
敵の最後のひとりが、頭を失う。かくて、エリシュナは危機を脱した。
それは、エリシュナの長く険しい戦いの日々の、始まりに過ぎないのだろう。確信があった。
敵の告げた、名前。魔導女帝エンブラ。
真実、その名がエリシュナの命を欲するならば、彼女にとって安息の日は遠い彼方の物語になったというしかない。
だが、今はそれでも。
「ルース──」
エリシュナは、刺客から味方へと変貌した青年の傍に歩み寄り、告げる。
「信じていました。貴方が敵のフリをして、私に切っ先を向けてきた、あの瞬間すら」
嘘だった。
信じていたのではなく願っていただけ。
そうなったらどれだけ素敵だろう、と、世慣れぬ小娘がたわいなく、自ら何の努力もしていないくせに願った妄想に過ぎない。
それが。眼前の戦士の、想像もつかない程の献身によって、かなえてもらっただけのことだ。
「お嬢様、父君をお助けできなかったは、我が身の不徳。いかように恨まれようと──この命をご所望なされようと文句は申しません。ですが今は──」
「ルース。我が騎士。敵の名前が真なら、その強大さは聞き知っているつもりです。それにあえて背を向け、私に味方してくれた貴方を、どうして恨んだりするでしょう」
その水晶細工よりも美麗な手で、戦士の顔を綿毛を掴むかのように繊細に撫でる。
部屋は暗がり。多分、見えてはいなかった筈。いや、見えずにいてほしい。それは状況の確認ではなく願望。エリシュナは今、家が燃やされ、父を殺された娘の顔をしていない。だから見られていては困る──エリシュナは思う。顔に血の気が登り、微熱を帯びている様など! 時と場所と状況が異なったなら、そのまま唇を重ねかねない勢いな様など! 自分の敵をこの美丈夫はふしだらと称していたが、それに劣らないくらい、今の自分はふしだらだ、とエリシュナは恥じる。
しかし今は。幼き頃より自分の家に仕え、父と自分に仕えてくれた戦士ルース。──他の誰より秀麗で、他の誰よりも強く逞しかった憧れの兄のような人であり続けてくれた人が、この上ない困難を承知で自分に味方してくれた。不幸の中の、それでも夢のような幸いを、噛み締めようとエリシュナは思った。
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