第3話 運命はまるで闇のよう

 それは貧富と身分の差が激しい時代のこと。ラムブレヒト家は王都シェナーンでも有数の富裕であり、隙あらばいつだって盗賊の類から虎視眈々と狙われているのは、少し考えればすぐに分かる筈のことだった。


 完全に、油断していた──


 後に、襲撃された真の理由が判明してからはそうもばかりも言えない部分はあったが、その時はそうとしか考えられなかった。


 賊の数は三人。父・バプティストがルースを伴って屋敷を出てから、二時間近くが経過しようとしていた昼下がりのことだった。


 勝手口から、物音が聞こえた。数少ない使用人は、今日はこないことになっている。しかし何らかの忘れ物とかだろうか? と、エリシュナは見に行って──そのまま捕まった。


 その時の恐怖は、筆舌に尽くしがたい。


 実家と、神殿。父と、騎士のような青年と、神殿の神に仕える大人たち。未だそれが世界の全てであった年端のいかぬエリシュナにとって、無法者たちに捕まり、猿轡をかまされ、縛られるということがどれほど怖い体験であったかなどと、第三者に完全に説明し得る筈もない。


 成人の男が三人。エリシュナに、対抗する術の持ち合わせはなかった。いや、厳密には持ち合わせていたが、それで抵抗しようという意思どころか、その発想すら芽生えなかった。


 ただ、ただ、怖かった。


 見知らぬ男たちから、自由も尊厳も省みられずに扱われるということの、おぞけを振るうような体験。エリシュナはこの時、すでにこのフィスカール国最大人口を誇る首都にあってなお、近隣でも噂されるくらい輝くような容貌を持つ少女として評判を獲得しつつあったくらいであるから、もしあと少しでも事態が変化していなければ、エリシュナは男たちから一生をかけても拭い切れぬ心的外傷を負わされるような暴行を受けていたこと疑いない。


 その最悪の事態から救ったのが、急ぎ駆け戻ったルースだった、という訳である。


 憧れで胸焦がされる日々を共に過ごしていた、秘めたる想い寄せる美貌の若者が、筆舌に尽くしがたい恐怖の中から救出してくれた──


 これで淡い想いを真性の恋に変化させずにいられるほど、当時エリシュナは擦れていない。いや、今現在のエリシュナとて果たしてどうか。そもそもが、未だ熟さぬ若輩の身であること間違いなく、恋愛の手管などというものからは程遠いエリシュナである。ともあれそれが、ルースがエリシュナの心の聖域を占拠する最大の契機となった。


 それは男たちがエリシュナを縛り上げ、家の中をあらかた物色し終えたくらいのこと。男の一人が父の所蔵していた年代物のワインを煽りつつ、獣じみた視線を自分に注ぎ、下卑た笑みを浮かべて近づいてきた。それが何を意味しているか、相手が何を考えているのか、童女と呼ばれる年齢を脱して未だ数年、というエリシュナには分からなかったが、生理的におぞましいものを感じたことは間違いない。


 エリシュナに男の手が触ろうとしたまさにその瞬間、勝手口の扉が勢いよく開く音がした。


 そうなっては男も、エリシュナを使って男の生理的な欲望を吐き出し快楽を楽しむ、などとやらかしてはいられない。十中八九、家の者であろうからと、エリシュナは欲望のはけ口から人質へと立場が変貌し、男に乱暴に立たされた。


 エリシュナは喉に刃物を突き付けられつつ、勝手口のある水場へと移動させられた。幼くとも愚鈍ではなかったから、エリシュナは勘気や恐怖で取り乱したり暴れたりはしなかった。それが自分の命を危うくすることには、十分思い至ったから。


 男なりに、エリシュナを盾にしつつ慎重に水場に入る。そこに至るまでに、男はあと二人、自分と共に屋敷に侵入した二人の仲間の名を呼んだが、駆け付けてくることはなかった。事態が自分にとって都合が悪い方に転落していっていることを、男は悟らざるを得ない。そのままエリシュナを盾にしつつ、音がした勝手口から逃げることも視野に入れ始めた時、男は突然、悲鳴を上げてのけ反った。


 勝手口と、水場の方に気を取られていた男の背後に、いつの間にか忍び寄っていたルースが男の右腕を切り落としたのだ。


 残った左手をエリシュナの首に回し、これ以上の危害を加えるようならエリシュナを絞め殺す態度を示す──などという余裕は、男にはなかった。


 元々、訓練された戦士や兵士という訳でもなかったらしい。そんな輩が、腕を切り落とされてその激痛と衝撃の中、冷静に立ち回れる筈もない。二の腕から先が消失し、血が噴き出る様を見て痛みと絶望の悲鳴を上げるのがせいぜい。


 そこで。ルースは素早くエリシュナを自分の腕の中に奪い、位置的に水場が見えない、すなわち男から遠く離れた場所に下がらせられると、ルースは水場に踊り込みエリシュナの視界から外れた。


 ルースがエリシュナの視界から外れてから、それはわずかどれだけの秒数であったろう。


 まさにほんの僅か。


 絶叫は、ごく短く。水場でひとつの命が終わったのだと、それで伝わった。


 実際には三つ。勝手口で音を立てる前に、ルースは屋敷に密かに戻り、二人の暴漢を始末していた。


 それが尋常ならざる業であったことは、素人のエリシュナにも分かった。ルースは、エリシュナに危害をすぐ与えられない離れていた二人を静かに屋敷に戻り無力化した後に、勝手でわざと音を立ててエリシュナを見張っていた男の注意を引き付け、隙をつき一瞬にして葬ったのだ。


 思いつくことは誰にでも出来ようが、実行するのは至難というそれらをそつなくこなす。それが凡人の所業でないことは、エリシュナに限らず誰の目にも明らかであったろう。


 暴漢たちに拘束された恐怖。そのうちの一人が、大好きなルースに眼前に葬られた衝撃。ルースが眼前で、人を殺めたという驚き。殺人者であるのに、ルースはかわらず自分を心より心配する顔を向けてきたという意外さ。自分は助かったのだという安堵。


 筆舌に尽くしがたいとは、まさにこのこと。エリシュナの半生において、これほど感情が入り乱れたことは、もちろんこれが初めてのことだった。


 様々な感情のうねり。その中で翻弄される理性が最後に掴んでいた感情は、


 ──助かった。助けて、もらった。窮地を、救ってもらったのだ。出会ったその日から憧れている人に。


 感情の理解に理性が追いついた時、あまりに多くの出来事で凍結していたエリシュナ。気づいた時にはルースの胸に飛び込み、赤子のように泣きじゃくっていた。


 それが、エリシュナの『憧れ』が『恋』に変わった瞬間だった。




 ……その時、変に思うべきだった。


『何故、ルースはそんなタイミングよく屋敷に帰ってこれたのか?』


 屋敷が留守の際に襲撃してきた3人の暴漢。


 襲撃してきたことを知っていたかのように、帰還し暴漢を排除したルース。


 これを、偶然と。信じられる方が、どうかしていたのだ。


 否。どうかしていた、などと体裁を取り繕っても意味はない。ただただ甘かった、世間知らずだった、子供だったと称するべきだろう。


 だが、ルースに対して恋に落ちていたエリシュナに、その疑問へと到達することは出来なかった。


 ただただ、愛の為せる業だと。ルースの方も自分を愛してくれているのだと、そのおかけで超常的な感が働いて、愛する自分の危機を察し駆け付けてくれたのだ、などという、前記した『甘ったれた世間知らずの小娘』としてそう信じてしまった。後世、エリシュナはそのことを記憶から都合よく消し去った。それくらい、覚えておくには恥ずかし過ぎる記憶であったから。


「お察しの通りです、お嬢様」


 ルースから、冷たい真実が少しずつこぼれ始める。  


 一言、『畜生の仕業』と称するより他にない計画が、ルースの口から。


 かつて最初に起こった盗賊押し入り事件は、エリシュナ父娘二人の信頼を勝ち得るために、賊たちを焚きつけて行ったルースの──というと語弊がある。『エリシュナの敵』からルースに下された命令によって、自作自演であったこと。強盗たちは、使い捨ての道具だった訳である。


 その後、信頼を勝ち得たならエリシュナを誠心誠意、愛している『フリ』をし、極力その恋心を獲得するよう努めること。


 完全にエリシュナがルースに心を許したならば、その時を見計らってエリシュナの眼前で父親バプティストを抹殺し、住む場所を焼却し、途方に暮れるエリシュナに対してルースの正体を明かした後、暴漢たちにエリシュナを襲わせること。


 そのような、何の目的かも分からない──言うなれば、ただただエリシュナを痛めつけるためだけに練られ実行された計画。


 それが、後世『惑乱の女帝』と呼ばれることになる女。大陸の西域と東域の国境をすら遥かに越え、大陸東域へと出てさらに東。その版図約1千万KM2を誇るとされ、魔導帝国の築きし魔術文化の神髄を今に伝え富栄えると伝わる、ヨンロン央雅帝国9代目皇帝・エンブラの頭脳から発したのだ、とルースは教えてくれた。


 全てを語り終えた後、ルースはエリシュナの前にひざまずき、その首をエリシュナの前へと差し出した。


「私のお話できることは、全てお話できたと思います。最後に、エリシュナ様。我がロードよ。この首を、あなたに。あなたの御心を弄んだ愚か者に、死を賜りますよう」


「いいえ、まだです。まだ、聞いていないことがありますよ、ルース」


 それは何か、と、言葉にはしない。ルースは下げていた頭をあげ、エリシュナにその視線を向ける。


「ルース。あなたは先ほど、私を蹂躙しようとしたあなたの元同僚に、言っていました。祖国の蹂躙者に剣も魂も捧げたつもりはない。私とあの女は事の始まりから敵同士、と。あれはどういう意味ですか?」


「言葉通りの意味です」


 ルースは答えた。央雅帝国9代目女帝エンブラ。それはルースにとって、生まれ育った祖国を蹂躙し、併呑した憎き敵国の首魁の名なのだ、と。


 ルースの祖国は、央雅帝国と大陸西域との間にある小国家群のひとつであったという。それが、央雅帝国の領土欲によって踏みにじられ、飲み込まれたのだと。


「もうひとつ、聞きたいことがあります」


「祖国の敵に、恥知らずにその尾を振ったことですか?」


「いいえ、……いえ、それも興味がないと言えば嘘になりますが、今、もっとも聞きたいのは別のこと」


「それは何でございましょうか」


「そのような、強大な帝国の主を裏切ってまで、どうして私を助けてくれたのです」


 あのまま。


 あのまま、ルースは元同僚にエリシュナを好きにさせるだけで良かった。


「それは……」


 それまで、流水のようによどみなく喋っていたルースが、まるで口に泥を食んだように言葉を濁した。それまで、エリシュナに潔く殺されようとまっすぐエリシュナに向けていた視線すら外して。


「ルース。あなたは私に、何一つ隠し立てなく喋ってくれるものと信じていました。でもそれは、私の思い上がりでしたか? 私は、全てを語るには足らぬ主ですか?」


「違います、そのようなことは決してございません。私に、その理由を語る資格がないということなのです」


「ルース。私の方から話して欲しいと頼んでいるのですよ?」


「お許しを、エリシュナ様。これ以上、恥を晒したくありません。どうか、速やかな死を賜りますよう」


「なりません。ルース、あなたは──あなた個人は、全力で助けてくれようとした。それは分かっています。でもあなたは、計画を知っていたのにお父様を守れなかったのです。その身の上で、恥を理由に私の質問から逃げようと言うのですか? それは少し、虫が良すぎではありませんか?」


「お……お許しを、エリシュナ様。私は……」


「言うのです、ルース。あなたは何故、強大な女帝を裏切ってまで、私を助けてくれたの?」


 全てを諦め、死を覚悟し雑念を見せなかったルースが、ここに来て地にひれ伏し、頭を抱え、苦悩し始めた。


「お、お許しを、エリシュナ様。私は……私、は……騎士でなくてもいい、せめて剣士として……!」


 もはや、飼い主に打ち捨てられた子犬のように哀れな体で回答の拒否を請い願うルースに、しかしエリシュナは冷然と首を横に振る。


 本来。ルースはエリシュナの窮地を救った男であり、エリシュナはルースに感謝こそすれこのように毅然と質問をするのは筋が違う筈であった。であるのに、今、二人は真の主従として、苦悩する咎ある部下に詰問する女主人となっていた。


「答えなさい、ルース。何故?」


 お、おおおおおおお、と、苦悩の呻きとともに頭を抱え、魂を恥の気持ちに奮迅させつつ、ルースは喉の奥から声をしぼりあげた。


「あ、あなたを……真実、愛してしまった、から……!」


 ──標的であった女に、真実惚れた。


 ルースが主をエンブラと定めているならば、命を果たせなかった臣であり。


 主をエリシュナと定めているならば、仕えるべき主に横恋慕した臣。


 どちらをとっても、名誉を至上とする者には死よりもつらい恥辱。それを秘して土に還りたいと、願って不思議はないルースの深奥の苦悩を、エリシュナはその命により引きずり出した。


 そして、秘すべきほどの恥を引きずり出され、のたうつルースにエリシュナは手を差し伸べた。


「ルース、我が騎士にして、私の恋する人。死ぬべき命なら、それを私に下さい。私を、これからも女帝の魔の手から守って」


「エ、……エリシュナ……様……っ!」


 主に懸想していたと、軽蔑されるのではないかという恐怖が、望み以上の言葉と感情によって報われた。ルースは心も体も弱くはなかったが、この時ばかりは落涙

をこらえることができなかった。


 ──男が女の肉体の純潔を奪うなら、女は男の心の純潔を奪う。エリシュナも、ルースも、本人たちにその自覚はなかったが、今、ルースは間違いなくその心の純潔をエリシュナに奪われたのだった。


 愛する男の苦悩。その苦悩の理由が、自分への愛の葛藤であるゆえ。それで苦しむルースの姿が、全身震えてしまう程の恍惚をエリシュナに与えていた。



 

 これから先のことを、考えるのが怖い。


 最後の親を失った。生家を失った。エリシュナ自身には、もう何もないのだ。


 それはまるで、月明かりすらない真夜中に、ただひとり立ち尽くすかのような恐怖。


 だがそれでも、とも思う。


 唯一の救い、ルース。


 その、自分にただひとつ残されたもの。父がエリシュナに残してくれた、ルースという名の護衛。彼女のためだけの騎士。


 彼さえいれば。まるで闇夜のような暗がりの中にも、ランタンの明かりのような小さな灯火をつけては進んでいけるとも思っている。


 世間知らずの箱入りの自分にとって、これからのことなど想像もできないけれど。ルースさえいてくれるのなら、ともエリシュナは思うのだった。

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