光サイド
綺麗はまだまだ程遠い
白い
「何食うの」
「んー、私、きつね蕎麦かな! 温玉乗せで」
「じゃあ俺、月見うどん」
そんな会話を終えたタイミングで、白髪混じりの髪を一つに結った年配の女性がテーブルの上に湯呑みを置く。俺は片手を上げて呼び止め、今しがた決まったうどんと蕎麦を注文した。
「月見うどんと、きつね蕎麦を一つずつ」
「ちょっと、温玉は!?」
「……きつねに温玉トッピングで」
「あ、あとネギも多めに!」
……いちいち注文の多い女だ。俺の背後で身を乗り出し、喧しく横入りして来る声に呆れた溜息が漏れてしまう。そんな喧しい女の注文に嫌な顔一つせず、女性は「はいはい、少しお待ちくださいねえ」と微笑んで厨房へと戻って行った。
「ねえねえ、今日満月だったよ。すっごいの見えたもん、お月様!」
その丸っこい背中を見送った頃、唐突に始まるのは何の脈絡も無いくだらない話。また始まった、とうんざりしつつも俺は彼女に相槌を打つ。
「へえ」
「あ、素っ気な! 冷た! 月見うどん注文したくせに月には興味ないのかっ!」
「うるっせーなァ……」
耳元でキンキンと響く声がやたら高くて喧しい。幼馴染み歴十数年のこの女は、昔からこんな感じである。
ぴいぴいと煩く喚いては、親鳥を追う雛の如く俺の後ろを付き纏うのが通常運転。まさか大人になってもこの関係が続くとは思わなかった。腐れ縁とやらの鎖はどうも暫く切れそうにない。
その後も他愛のない話を一方的に聞かされ、適当に相槌を返していると注文したうどんと蕎麦がようやく運ばれて来た。「お待たせしました〜」と柔く微笑む女性がテーブルにそれらを置いた頃、ふわりと鼻孔を突き抜けたのはお出汁の香り。
「頂きます」
「いただきまーす!」
ほかほかと湯気を纏ったスープの上に浮かぶ、まあるいお月様に俺は早速割り箸を突き刺す。とろりと溶けて麺の上に広がる黄金色の月明かり。白い麺を箸の先で掬い取り、溶ける月と輪切りのネギをしっかり絡ませた後、いよいよそれを口元へ
ずる、ずずず。
舌に焦げ付きそうなほど熱い柔らかな麺を啜り上げ、噛めば優しいお出汁の香りとネギの風味が口の中に広がる。ああ、こりゃ七味だな、とテーブル上に置かれた赤い小瓶に手を伸ばせば、「柚子七味」との名称らしく途端に期待値が膨れ上がった。七味に、柚子だと。合わない訳ないだろ。
「うまー! 生き返るう!」
「七味いる?」
「あ、いるー!」
七味を月明かりの中に投入し、隣で蕎麦にがっついている幼馴染にそのまま手渡す。彼女の箸に挟まれているきつねは分厚く、じゅわりと汁を含んでいてかなり旨そうだ。俺もきつね追加すりゃ良かったな、とぼんやり考えながら、柚子の風味が絡んだ麺を啜った。
ずる、ずる、ずずず。
月を溶かしたうどんの汁の優しい味まで堪能し終わった頃、隣の女はへらりと笑って「美味しかった! ごち!」と図々しく手を合わせていた。俺は呆れて肩を竦めたが、六百円そこらの値段をケチってしまうのも男としてのプライドが許さない。「はいはい」と投げやりに返事して、俺は席を立った。
結局、俺は二人分の会計を払わされ、へらへらと楽しそうな彼女に続いて店を出る。街灯も疎らな田舎道。真っ暗闇の空に浮かんでいるのは、彼女の言った通りのまあるい満月だった。
「ねえねえ、月と競争しながら帰ろ!」
「……それどうやったら勝ち?」
「私が飽きたら終わり!」
「何だそれ」
そんなくだらない会話を繰り広げ、誰も居ない細道を並んで歩く。隣の幼馴染は月との競争に早速飽きたのか、歩道に引かれた白線の上を平均台でも渡るかのようになぞりながら歩いていた。
一体いつまで、こんな関係が続くだろう。俺はぼんやり考えて、闇に浮かぶ月を一瞥する。
ついこの間、高校を卒業したような気がしていたのに、気がつけば当時の仲間は次々と結婚、出産、育児に追われ、忙しそうながらも幸せそうで。幼馴染、腐れ縁。ただそれだけの薄っぺらな名前を掲げた俺達は、子供の頃から変わらない。
(コイツもいつか、他の誰かと結婚すんのかな)
そう思うと酷く切なくなって、俺は足を止めた。不思議そうに丸くなる彼女の目が、きょとんと俺に向けられる。
「どしたの?」
「……あのさ、」
口火を切って──後悔した。何を言おうとしてんだろ、俺。言葉が続かず、沈黙が二人を包む。じわりと手のひらに浮かぶ汗を握り締めた頃、視界に入ったのは明々と闇夜を照らす月の光。……ああそうだ、月だ、月が──。
「……月が、」
綺麗ですね、とは、言えない。かの有名なアイラブユーの言葉は、俺達にはまだ敷居が高すぎる。
だけどせめて、これくらいなら。
「月が、美味しかったな」
ぼそりと告げれば、彼女の目が更に丸くなった。しかしややあって、先ほどの月見うどんの話だと理解したのか、「ああ〜」と微笑んで頷く。
「うどん、美味しかった? 一口貰えばよかった!」
「やるわけねーじゃん」
「けちー」
あはは、と笑う無邪気な横顔に俺も頬を緩ませる。……今は、これが精一杯だ。だけどいつかは──と、そう思っていたのに。「でもさ、」と口火を切った幼馴染が、にっと悪戯っぽく微笑んで。
「──私は、綺麗だって、言って欲しかったけど」
「……は」
再び足が止まる俺。してやったり顔の彼女。言葉を無くした俺にへらりとはにかんで、俺が何かを告げる前に彼女は走り出す。
「ほらほら、月と競争だあ! よーいどん!」
「……っえ、それまだ続いてたのかよ!」
「もっちろーん!」
けらけら、楽しげな声が闇の中に響いた。俺は頬に集まる熱を誤魔化すように唇を噛み、月を追って走る彼女を追い掛ける。
月が綺麗だと告げるには、俺らはまだまだ程遠い。
けれど先ほど舌の上に焦げ付いた、月明かりを纏ったうどんの一口目よりも熱を帯びているこの心は──きっと嘘ではないから。
闇夜に輝く月の光が照らす道の上。近いようで遠いような、追いつきたいのに追いつけないような。
そんな眩しい彼女の細い腕を、とうとう俺は、掴み取った。
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