ウメコブドットの徒然なる短編集
umekob.(梅野小吹)
第4回 #匿名短編コンテスト・光VS闇編 参加作
闇サイド
行きは宵々、帰りは半分
月明かりの晩に
──亡くなった祖父のそんな言い付けを破り、月明かりの晩に宵音池を訪れてしまった事を、私は今とても後悔している。
ぱたぱたと暗闇を駆け抜けて、月の光を反射する水面に視線を落としたのが数分前。しかし今、私の目の前に広がっているのは暗い路上に点々とぶら下がる赤い提灯、賑やかな喧騒、そして明らかに人ならざる姿形をした正体不明の化物達であった。闇夜の中に浮かぶ、顔の無い人間や、二本足で立つ蛙、ふわりと宙を舞う鬼火など、夢か幻のような光景に私は物陰に身を潜めて戦慄するばかり。どうしてこんな事に、と宵音池を訪れてしまった己の行動を今更悔やんでもどうにもならない。
ふと、縮こまって身を震わせる私の肩を、何かがぽん、と軽く叩いた。思わず悲鳴を上げかけて、しい、と口元を覆われる。恐る恐ると視線を上げれば、赤茶けた和服に身を包み、ぐるりと巻かれた布で目元を覆い隠した細身の青年が、にんまりと頬を緩めてそこに立っていた。
「危ないよ、お嬢さん。ここは人間の来る場所じゃあ無い」
そう告げる彼を、私は震えたまま黙って見上げる。怯えているのが分かったのか、青年は「あァ、俺が怖いのかい?」と笑った。
「そう怖がるな、俺はアンタを取って喰うような趣味は無い。だから落ち着け」
「……」
「そもそも、此処が何処だか分かるかい?」
彼の問いに、私は黙ったまま首を振る。すると彼は「だろうねェ」と楽しげに喉を鳴らした。
「此処は宵闇の狭間、妖の暮らす“宵の市”さ。もっと分かりやすく言えば、あの世とこの世の間みたいなモンかね」
「……!」
「おっと、勘違いするな。アンタが死んだって訳じゃあ無いんだ。迷い込んだだけさ、一時的にね」
に、と彼は微笑んで私の手を取った。促されるまま立ち上がれば、ふと顔に何かを被せられる。──それがどうやら何かの面らしい、と悟った頃、彼は唇に人差し指を当て、「良い子だから、少し静かに」と囁いて、私の手を引いたまま歩き始めた。
宵の市、と呼ばれたその通りには、串に刺さった
「人間ってのは、金で物を売買するんだろう?」
彼は私の手を引きながら尋ねる。私は黙ったまま頷いたが、目を隠している彼にこうして頷いた所で見えていないのでは、と気が付き、面の裏で視線を泳がせた。しかし彼は理解しているようで、「へえ、そうかい」と楽しげに返す。
「この宵市にゃ金は必要ない。それなりの“対価”があればそれで取引成立だ。人間の世に帰る前に、何か土産を買って行ってもいいが、どうする」
そんな提案に、私はちらりと周囲の屋台に並ぶ品々に目を向けた。そのどれもが恐ろしく見えて、私はふるりと首を振る。
「そうか、要らないか」
じゃあ仕方ないな、と彼は私の手を引き、薄暗い路地の中へと入ってしまう。賑やかな喧騒が徐々に遠のき、闇の濃さが増して行く。配管が張り巡らされた路地を奥まで進んだ頃、とうとう何の音も聞こえなくなった。怖い、と泣き出しそうに表情を歪めた私だが、ふと彼は狭い路地の突き当たりで足を止める。目の前には、深い闇の底へ伸びる細い階段。
「この階段を真っ直ぐ下れば、元の世に戻れる」
「!」
告げられた言葉に、私はぱっと顔を上げた。すると不意に顔に被せられていた面を取られ、狭苦しかった視界が広くなる。
目元を布で隠した青年はにんまりと微笑みながら、私の頬をそろりと撫でて。──途端に、体が硬直した。
「──このまま、何事も無く帰れると思うかい? お嬢ちゃん」
色を孕む声が、そんな言葉を囁く。大きく見開いたまま固まる私の目のすぐ下を、彼の長い指がそっとなぞった。彼の目は隠れて見えないのに、獲物を捕らえた肉食獣のような視線が、じりじりと私の瞳を貫いて。
「此処まで案内してやっただろう?」
くつくつと鳴らされる喉に、ぞっと背筋が凍ってしまう。目の下をなぞっていた彼の長い親指が徐ろに持ち上がり、私の眼球を抉らんばかりの距離にまで近付いて動きを止めた。
「俺はなァ、目の無い妖なのさ。だから世界はずっと闇の中」
「……」
「そろそろ俺も、月の光とやらが見てみたくてね。だからお嬢ちゃん、俺に──」
迫る唇が、にんまりと三日月のように弧を描いた。そして、彼は告げる。
「対価をくれよ」
──元の世に、帰りたいんだろう?
そう問いかけられ、私はごくりと生唾を飲み込んだ。元の世に、帰りたいのか。その問いの後、彼の指が私の眼球を抉ろうと近付いて──。
「……いやだ」
溢れたのは、私の微かな声。
ぴくり、彼の指先が反応する。
「帰りたく、ない」
「……何?」
「帰りたくない……!」
ぼろりと、目尻に溜まった大粒の涙が滑り落ちる。突然泣き出した私に、彼は声を詰まらせて固まってしまった。
私の脳裏を過ぎったのは、私を嘲る同級生達の顔と──私を愛さない、両親の顔。今日だってそうだ、私を痛め付けようと追い掛けてくる村の子ども達から逃げて、それで、宵音池へ──。
「……本当に、帰りたくないのか?」
不意に問い掛けた彼に、私は涙を落とし、嗚咽をこぼしながらこくこくと頷いた。すると彼は暫く黙り込み──やがて、私の頬から手を離す。
「……帰らないってんなら、対価は貰えねェな」
ふう、とつまらなそうな様子で小さく溜息を吐きこぼし、彼は壁に凭れた。私はぐすぐすとしゃくり上げ、隠れて見えない彼の目を見つめる。
「……目、取らないの」
「タダでくれんのかい?」
「……ううん。でも、」
私は目尻に浮かぶ涙をごしごしと擦り、俯きがちだった顔を上げた。
「片方なら、あげてもいいよ」
「……ほう?」
「でもね、対価が欲しいの」
彼は興味深そうに私の話に耳を傾ける。私は片目を手で覆い、狭くなった視界で彼を見た。
「この世界の事、よく知らないから……暫く、一緒にいてくれる?」
──そしたら、私の光を半分あげるよ。
そう告げれば、彼は楽しげに喉を鳴らした。
「……なるほど、悪くねェ」
彼は壁から背を離し、ゆらりと私に近寄る。そして再び、頬に指を滑らせた。
「取引成立だな」
──アンタの光、貰ってくぞ。
冷たい指が目尻に触れる。それが眼球に入り込んだその瞬間、私の半分は、彼の闇に変わった。
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