第37話 玉藻前の世界(決戦)

 跳躍で畳の一部が爆ぜた。玉藻前の膳が吹き飛び、女性が片膝を突いた状態で現れた。瞬時に赤子を奪い取って脇に抱える。

「返して貰うぞ、女狐」

 玉藻前の金色の眼が下方に流れ、鉤爪を振るう前に女性は神速で消えた。

 翠子は両腕を下ろした状態で歩き始める。肩口から赤銅色の巨大な腕を生やす。大広間が狭く感じられるくらいに広げて足を速めた。

 その姿を一瞥いちべつした女性は目を見開く。感嘆に近い声を漏らし、即座に切り替えて横手に走る。棒立ちで震えていた竜司の特攻服の襟を引っ掴んで背負った。

「く、首が、締まる」

「巻き込まれる前に逃げるぞ」

 女性は二人を連れて邪魔な障子を蹴り破った。高欄こうらんに足を掛け、暗闇に向かって跳んだ。後ろ向きで落ちる格好の竜司は自然と口が開き、着地の衝撃で閉じられた。

 凄まじい破砕音が起こり、一帯が揺れた。

「予想以上だぞ」

 女性は走りながら後方を見やる。建物の上部、左側が金色こんじきの拳の一撃で四散した。吹き飛ぶ瓦礫の中に玉藻前の姿があった。九本の尾で全身を包み、直撃を免れていた。

 追い掛けるように翠子は中空にいた。左右の金色の拳を矢継ぎ早に繰り出す。強靭な尾は急激に太さを増し、数本が反撃を試みる。鋭い穂先は大きく沈み込んで無防備な足元を狙う。

 翠子は赤銅色の両脚を出し、金色に変えて迫る凶器を蹴り上げた。

 落下に転じても二人は攻撃の手を緩めない。しかし、数に勝る玉藻前が形勢を逆転させる。翠子の露出した部分が切り裂かれ、血がしぶく。苦悶の表情から攻撃の手は止まり、全身への防御に回された。

「守るだけでは勝てませんよ」

 尾の隙間から凄惨な笑みを見せた。その直後、全ての尾が翠子に襲い掛かる。

 四脚門の屋根に避難した女性は顔を顰めた。

「この展開は不味いぞ」

「助けに行きましょうよ。俺も出来ることをしますから」

 竜司の言葉に女性は力なく頭を左右に振った。

「どうしてですか! 姉御が、あれを見てくださいよ!」

 強張った顔で竜司は指差した。玉藻前の九本の尾は巨大な槍となって建物を串刺しにする。上がる土煙の中に翠子は埋葬されるように押し込まれた。

「どうしました? フフ、抵抗しないのですか? 永遠の眠りは、フフフ、そこにはありませんよ、アハハハハ!」

 狂気を孕んだ哄笑こうしょうに竜司は瓦を思い切り踏み付けた。

「あれは一騎打ち。誰の介入も許されない」

 女性の重々しい声に竜司は口を閉ざす。その場にドカッと胡坐を掻いた。一方的な展開に悔しさを滲ませる。

「お姉様は負けません」

 竜司の横からの声に、おい、と声を掛けた。

「なんですか」

「姉御の敵が、どうしてここにいるんだ」

 天邪鬼は甘ったるい笑みを浮かべる。

「お姉様をお慕いしているからに決まっているじゃないですか」

「寝返ったのか? それに喋り方がおかしいぞ」

「以前と同じですよ。頭に麩菓子を載せた人はこれだから困ります」

「リーゼントだ」

 二人の会話を遮るように女性が言った。

「翠子は無事だぞ」

 建物が内側から打ち破られた。転がり出た翠子は倒した篝籠で火の粉を浴び、すぐさま立ち上がる。黄金の四肢は健在だった。構えは取らず、ぼんやりした目で玉藻前の姿を見ていた。

「よく抜け出せましたね。好きですよ。強い人は、フフ」

 玉藻前は二本の尾を石畳に突き立てて移動した。

 再び、二人は対峙した。玉藻前の口角が切れ上がる。

「構えないのですか? まさかとは思いますが、命乞いでもするつもりですか。あなたの言葉ではないですが、そのような無様な命乞いは認めませんよ。フフフ」

「……ダメ、全然……ダメだね……」

 翠子は虚ろな目で呟き、薄っすらと笑みを浮かべた。

「ダメでも手は抜きませんよ」

「全然ダメだから、最後の手を使う」

 翠子の目に強い思いが宿る。

「奥の手があるとでも? 強がってみても形勢は変わりませんよ。仲間の助けは期待しない方がいいです。厳格な人がいるようなので」

 玉藻前は横目を向けた。女性は受けて立つような視線を返す。傍らで横になっていた赤子の指先がピクリと動いた。

「でも、少し悔しいな。任せてしまうから」

「物わかりが悪い人ですね。仲間の助けはありませんよ」

 翠子は深く頭を下げた。折れ曲がった状態で頭部がぶれる。赤銅色が浮き出た瞬間、女性は赤子と竜司を左右の脇に抱えた。

「小娘、逃げるぞ!」

 女性は飛び降りて来た道を猛然と走り出す。

「ちょ、な、なんで!?」

 天邪鬼は激しく動揺しながらも後を追い掛けた。

 地鳴りと咆哮が世界を揺るがす。誰一人として後ろを振り返れなかった。頭をガクガクとさせて力の限りに走る。

「間に合わん!」

 女性は走りながら身体を肥大化させた。虎柄のワンピースは腰蓑程度となり、筋骨隆々の浅黒い上半身に激変した。赤子と竜司を片手で掴み、隣にいた天邪鬼を握って一気に跳んだ。背中に爆風を受けて高々と打ち上げられ、大きな瓦屋根に着地した。

「ここまでくれば大丈夫だろう」

 三人を下ろして後ろを振り返る。

「これは……ここまでとは」

 金色の髪を無造作に掻く。頭部には二本の角が突き出ていた。

「あ、あなた様は……酒呑童子様?」

 天邪鬼はたどたどしい声で尋ねた。

「そうだ。赤子と翠子の父親でもある」

「えええええ、お父様なのですか!?」

「小娘にその呼ばれ方をすると複雑な気分になるぞ」

 酒呑童子は鼻先を掻いて遠方に目を向ける。竜司は放心した様子で一方を見た。

 金色の天を衝くような鬼が暴れていた。拳を振るう度に強い風が吹き荒れる。跳ぶと世界を揺らし、咆哮で近場の建物が幾つか崩れた。

「完全に正気を失っているぞ」

「姉御は……元に戻るんですよね!」

 竜司は泣きそうな顔で酒呑童子を見上げた。

「心配するな、小僧。力を使い切れば暴走は止まる。それにしてもだ。秘めていた力にオレも驚いた。あれこそ、翠子の本当の姿、鬼神おにがみだ」

「……姉様が鬼神」

 赤子はふらふらした頭で上体を起こす。竜司は笑顔で驚いた。

「おかっぱ、生きていたのか!」

「頭に響くのです。ワインで少し二日酔いなので黙るのです」

「そうなのか。悪かった、なんて思うか! 余計な心配させやがって!」

 竜司は赤子の背中を景気よく叩く。目尻には嬉し涙が滲んでいた。

「……殺意が湧くのです」

「回復したか」

「その声は父様ととさま……」

「顔が悲しそうだが」

「何でもないのです。赤子を助けていただいて、ありがとうございました」

 赤子は項垂れるようにして頭を下げた。酒呑童子は大きな手で乱れたおかっぱ頭を撫でて直す。目は自然に遠方へと向かう。

「鬼神とは言っても力の使い方に無駄が多いな。能力に目覚めたことは目出度いが」

「赤子は……」

 鬼神と化した翠子に対して、それ以上の言葉は出て来なかった。

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