第36話 玉藻前の世界(その5)

 小路こうじは緩やかに曲がり、次第に幅が狭くなる。翠子は走る速度を上げて先頭に出た。

「このワンピースはいかんぞ」

 女性はずり落ちる虎柄のパンツを胸まで引っ張り上げた。両手を離すことが出来ず、翠子の真後ろに付けた。

「い、息が、上がる、なんでだ……」

 自慢のリーゼントを乱し、竜司は必死の形相で二人を追い掛ける。

 女性はくるりと向きを変えた。後ろ向きの状態でにこやかに笑う。

「久しぶりの身体に手こずっているようだな」

「こんなに、キツイとは、思いません、でした」

「小僧、前線には出るなよ」

「……それは、どういう」

「その状態だと死ぬぞ」

 何気ない言葉に竜司は黙った。乱れる息が苦しい内情を語っているようだった。

 女性は滑らかに回って背を向けた。

「……姉御の妹は、生意気で、全く可愛げがない……でも、頑張り屋で、助けたい、です……」

「翠子がいる。もちろん、オレもいる」

 女性の声に竜司は萎れるように頭を下げてゆく。

「そして、補助として小僧がいるぞ」

「は、はい、その通りです!」

 竜司は顔を上げた。荒い息で笑顔を作った。

 不規則な小路を抜けて徐々に中央へと向かう。最初に気付いたのは翠子であった。

「人がいなくなったね」

「追手の姿もないぞ」

 前後を確認したあと、女性は目に付いた長屋に駆け寄る。僅かな隙間から中を覗き込み、似たような行動を繰り返して戻ってきた。

「気配がないと思えば誰もいないぞ」

「誰かが避難させたのかもね」

 翠子は走る速度を上げた。


 三人は走り続ける。人気のない大通りは両側に置かれた石灯籠の狐火で明るく、夜の闇を寄せ付けない。建物の軒先にはずらりと提灯が吊り下げられて寂しい祭り会場のようだった。

 正面に見える白壁が通りを寸断する。出入口となる四脚門よつあしもんの戸は開いていた。三人は躊躇ためらうことなく揃って飛び込んだ。

 白い石畳が整然と嵌め込まれた広い空間に出た。鉄製の篝籠かがりかごが林立して赤々とした炎を上げている。その最奥には横幅のある朱塗りの瓦の建物が浮き出ていた。

「目指す先はわかったけど、すんなりとは通してくれなさそうね」

 翠子が進み出る。篝火かがりびぜる音を聞きながら中央まで行って立ち止まった。

「天邪鬼ちゃん、久しぶりね。元気にしてた?」

「チューするヘンタイのくせに馴れ馴れしいのよ!」

 小柄とは思えない大音声で返す。天邪鬼は胸元で掌を合わせた。その姿は巫女装束とよく合う。

 後方で目を細めていた女性は大声を上げた。

「巨大化するぞ!」

「今頃、言うな!」

 翠子は瞬時に飛び出し、天邪鬼を両腕で締め上げる。

「もう遅い!」

 天邪鬼の全身が不自然に盛り上がる。背が伸びて翠子と同じ目の高さとなった。胴体に回している腕が軋み始める。

 苦痛に苛まれた顔で翠子は怒鳴った。

「打開策は!」

「動揺させろ!」

「無理だね。力が溢れてもう止まらない。グチャグチャにしてや……んんんん……!」

 翠子は唇で言葉を阻んだ。目を剥いて顔を逸らす天邪鬼を逃さない。渾身の力で締め上げ、唇に吸い付く。啜り上げるような音を激しく立てる。

 天邪鬼は目に涙を溜めて顔を左右に振る。翠子は吸い付いて離れない。

「うわぁ……なんか酷いことになってるんですが」

 竜司は直視を避けて言った。

「オレとしても複雑な気分だぞ。動揺はしているようだが」

 女性の言葉を証明するかのように天邪鬼の身体が小さくなる。抱き締められたまま、ぐったりとして石畳に寝かされた。

 竜司が慌てた様子で駆け付ける。

「姉御、離してもいいんですか」

「心配ない。先を急ぐよ」

 翠子は唇をパーカーの袖口で拭って走り出す。

 天邪鬼は半ば白目を剥いた状態で放心していた。濡れそぼった唇が怯えるように小刻みに震えている。

 女性は手を合わせて通り過ぎた。


 三人は建物の内部に押し入った。赤い床を土足で走り、鮮血を滴らせたような階段を駆け上がる。

 見つけた扉を手当たり次第に開けた。贅を尽くした調度品には目もくれず、懸命に赤子を探す。

「どこよ!」

 苛立ちが頂点に達し、翠子は支柱の一本を蹴った。稲光に似た亀裂が走る。収まらない怒りを原動力にして探し回る。

 巨大な扉に行き着いた。赤い狐火が中央に大きく描かれ、何重にも塗られたような厚みのある黒色が艶やかな光を湛えている。

 翠子は金色の取っ手を両手で握り、押し開く。畳みが敷き詰められた大広間の奥に玉藻前がいた。手前には赤い膳があり、同色の椀が整然と置かれていた。数本の徳利や倒れた瓶も見られる。

 三人は遠慮なく土足で上がる。先頭にいた翠子の足が突然に止まる。頭が急激に震え始めた。

 突然の変化に竜司は驚き、隣にいた女性に目を向ける。互いの意識を共有して翠子の側に控えた。

「……なにをした?」

 抑えた声で翠子が訊いた。

 玉藻前は結い上げた髪に挿していたかんざしの飾りを指で弄り始める。

「わからないわね。なんのことかしら」

「赤子になにをしたああああ!」

 激高と共に拳を握る。翠子の姿勢が低くなり、上唇が捲れ上がった。覗いた犬歯が鬼へと近づけてゆく。

「この娘、愛らしいわ……殺したいくらいに」

 玉藻前は微笑みを浮かべた。すらりとした白い指を伸ばし、手前の膳を静かに横に動かした。膝に載せられた白い顔は時田赤子であった。瞼を閉じて、だらしなく開いた唇からは赤い筋が流れ出していた。それは滴り、畳にまで広がっている。

 翠子の両腕がだらりと下がる。弛緩した状態で全身から溢れ出る鬼気が大広間を埋め尽くす。

「……命乞いも……させない……」

 翠子の押し殺した声が玉藻前の表情を消し去った。

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