第32話 玉藻前の世界(その1)

 マンションの一室で時田翠子は着替えを済ませた。伸縮性のある黒いタンクトップに同色のスパッツを合わせる。出掛ける間際にモスグリーンのパーカーを羽織り、必要最小限の物をポケットに収めた。

 夕焼けに染まる道に出ると仙石竜司が待っていた。翠子に一礼すると横に並び、共に道なりに歩き出す。

「姉御、手ぶらですか?」

「情報がなければ対策も立てられないわ。あんたが受け取った短冊は持ってきたけど、なんの役に立つのか」

 人差し指と中指の間に短冊を挟んで揺らす。墨で書かれた文字は黒い龍のように身をくねらせた。

「俺にもわからないです。ただ、玉藻前たまものまえが招待状と言っていたので何かの役に立つとは思います」

「わからないことを考えても仕方がない。人質に取られた赤ちゃんを最優先に考えて動くだけよ」

 翠子は自身の掌に拳を打ち付ける。竜司が横目をやると凄味のある笑みで犬歯を覗かせていた。

「オレも一緒に行くぞ」

 その声に二人は立ち止まって後ろを振り返る。金髪のショートの女性が勝ち気な笑顔で走ってきた。

 竜司は小声で言った。

「姉御、知り合いですか?」

「初めて見たよ。あんた関係じゃないの?」

「族のレディースに知り合いはいましたが、あんな特攻服は記憶にありませんよ」

 女性は走りながらこちらに耳を傾ける。靴底を滑らせながら止まると二人の肩に手を置いた。

「二人共、顔が渋いぞ。虎柄のワンピースだと思えばいいではないか」

「下がスカートじゃないんだけど」

 翠子は透かさず指摘した。女性は豪快な笑みを作った。浅黒い肌の為、歯が白く輝いて見える。

「本当は虎柄のパンツを胸まで引っ張り上げた状態だからな」

「それってワンピースじゃないよね。肩が丸出しだけど、寒くないの?」

「まあ、子供は虎の子だからな」

「風の子では」

 竜司がぽつりと呟いた。

「オレは数の子でもいいぞ。あれは酒によく合う。では、行くか」

「あんた、何者よ。亡霊に驚きもしないで普通に会話しているし」

「オレのことは、そうだな。座敷童ざしきわらしだと思えばいいぞ」

 翠子の目が刃のように細くなる。僅かに腰を落とし、女性に問い掛ける。

「そうなの?」

「いや、違うが」

「はあ? さっきからなんなの。ちゃんと答えなさいよ!」

 翠子の怒声に竜司が戸惑うような視線を向ける。女性は心情を隠そうともしない。呆れたような笑みを返した。

「翠子、細かいぞ。赤子がどうなってもいいのか?」

「名前もそうだけど、なんでそのことを」

 途中で言葉を切った。凄まじい形相で横手の竜司を睨み据える。

「ご、誤解ですよ。俺は姉御に話しただけです。信じてください」

「その通りだぞ。オレは赤子の見張り役の影女から聞いて駆け付けたのだぞ」

 翠子は訝しげな顔となり、女性の耳元に口を寄せた。

「……まさかとは思うけど、お父様の命令で来たってこと?」

「お父様ではなくてパパだろう」

「そんな呼び方、したことないわ! いい加減な情報を流して……いつか、あの黒カビ稲荷を蹴り飛ばしてやる」

「それよりもだな。時間に間に合わなくなるぞ」

 指摘を受けた翠子は、急ぐわよ、と声を掛けて早足になる。他の二人は左右に分かれて付いていく。

「あのね、監視役なら必要ないんだけど」

「監視役ではない。オレはお守りだと思えばいいぞ」

「格好がヘンで小柄のあんたがねぇ」

「結構、頼りになるお守りだぞ」

 女性は腕を曲げた。不自然な力瘤は裏側から指で押した効果であった。

 翠子は心底、疲れたような溜息を吐いた。


 夕陽の色が濃くなる。空の一部に夜が染み出す。

 三人は指定された資材置き場に足を踏み入れた。鈍色の穴は見当たらない。指定された時刻の十分前に到着した。

「ここは天邪鬼ちゃんと初めて会ったところね」

「相手方には天邪鬼もいるのか。今回は楽しめそうだ」

 女性は手を叩いて喜びを露わにした。正面にいた翠子は冷めた目を返す。

「付いてくるのはいいけど、わたしはあんたに構っている暇は」

 話の途中で翠子は、ぽんと背中を叩かれた。

「翠子、油断大敵だぞ」

「……そのようね。それと安心したわ。足手纏いにはならないみたいね」

「もちろんだ。問題はそこの坊主だぞ」

 翠子の背後を離れ、女性は竜司と向き合う。

「え、俺ですか。大丈夫ですよ。大抵の物理攻撃は効かないですし、少しは物体に影響を与えることもできるようになりました」

「時間が無い。身体に教えるぞ」

 女性は前蹴りを放つと竜司は呆気なく後方に倒れた。尻餅をいた状態で右脚を眺める。膝から下が斜め上に向いていた。

「お、俺の脚が砕かれた!? しかも、こ、これは痛み、なのか」

「オレのように霊体に攻撃を加えられる者は数多くいる。翠子もそうだが、油断大敵だぞ。早く治せ」

 女性は笑って竜司を見下ろす。

「ど、どうやって。痛くて、動くことも」

「人間の癖を忘れろ。霊は煙やもやだ。決して折れたりしない。強く心に思うのだぞ」

「……俺は、もう人ではない」

 瞼を閉じて念じる。何回か呟くと右脚が伸びた。ゆっくりと立ちあがり、その場で軽く跳んだ。

「本当だ。折れていないし、痛みもない!」

「亡霊は思いの強さが力になる。この世に未練がある者は強い。制御できなくて自我を無くすが、小僧は見込みがあるぞ。思いを強く持て」

「わかりました。頑張ります」

 竜司は自然に頭を下げた。

「あんた、本当に何者なのよ」

 翠子が疑問を口にした時、空間に鈍色の穴が現出した。女性は待ち兼ねたとばかりに歩み寄る。

「オレは座敷童みたいなもんだ。お前達に幸運を授けてやるぞ」

「物騒なわらしがいたものね」

 先陣を切って翠子が穴に入る。女性はわくわくした様子で後に続く。

 最後に残った竜司はリーゼントを両手で整えて、行くか、と大きな声を発して踏み込んだ。

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