第31話 誘い

 時田翠子は音を立てないようにしてスーツを着た。出掛ける間際、心配そうな顔を時田赤子に向ける。

「お姉ちゃんは会社に行くけど、大丈夫?」

「赤子は眠いだけなのです。姉様に心配されるようなことは何もないのです」

 未だに赤子は布団の中にいる。掛布団を口元まで引き上げて眉間に不穏な強張りを見せていた。枕元には結露したペットボトルとタライが置いてあった。

「それならいいけど。梅粥を作ったからお腹が空いたら食べてね」

「食べ物の話は遠慮して欲しいのです。赤子はとても眠いのです」

 眠気を主張するが目を閉じない。一度は瞼が落ちて安眠の体勢に入った。数秒と持たず、むずかる子供のような表情で目を見開いている。

 盗み見た翠子は、目が回るのよね、と密やかに口にした。

「いってきます」

「いってらっしゃいなのです」

 赤子は仰向けの状態で手だけを挙げた。ふらふらと動かし、ドアの開閉の音を聞いて力尽きた。

「……気持ち悪いのです」

 睫毛を震わせて本音を漏らすのだった。


 身体がピクッと動いた。赤子は瞼を開けて視線を巡らす。部屋は淡いオレンジ色に包まれていた。

「赤子の寝顔を舐めるように見ている変態のカニがいるのです」

「心配する必要はなかったようだな。それとカニじゃない。これは伝統の姿勢のうんこ座りだ」

 仙石竜司は両脚を開いた状態でしゃがんでいた。リーゼントを両手で挟むようにして後ろに撫で付ける。

「淑女の前で口にしていい言葉ではないのです」

 赤子は上体を起こした。枕元にあったペットボトルのキャップを捻る。薄桃色の唇に押し付けて浅く喉を動かした。口の端から溢れた液体が首筋を伝ってパジャマの奥に入り込み、品を作るような動きを見せた。

 咳払いをした竜司が口を開く。

「姉御の力は桁外れだ。俺もあの強さに惹かれて、ここにいる。おかっぱの気持ちもわかるが、力を探るのはやめにしないか」

「どうしてなのです? 姉様を超えないと跡目を」

「越えればいいだろ。探らなくてもいいくらいに自分が強くなれば、跡目だって付いてくるんじゃないのか」

 竜司は強い視線を向けた。赤子は無表情で受け止める。ペットボトルの中身を一気に飲み干した。

「生意気なトサカ頭なのです。着替えるのです。外に出ていかないと宝刀で斬り落とすのです」

「な、何をだ!?」

 開いていた脚を瞬間的に閉じた。内股のような格好で立ち上がると竜司は慌てふためくように壁を突き抜けていった。

「赤子は強くなるのです」

 決意を口にして押入れを開ける。持ち込んだ桐箪笥の引き出しから真紅の着物を取り出した。


 マンションの横手に伸びる道で竜司が待っていると赤子が着物姿で現れた。

「姉様はいないのですが、Aチームの活動開始なのです」

「付き合ってやるよ。俺も強くなりたいし」

「生意気なトサカ頭なのです」

 横並びとなった二人は、ほぼ同時に一歩を踏み出した。繁華街を中心に動く。人々の中を行き交い、路地裏まで見て回った。

「何もいないのです」

 赤子は目の前の街灯を草履の先で小突いた。

「姉御の帰りを待った方がいいのかもな」

 方々に目を向けていた竜司が諦めたような声で言った。

 耳にした赤子が唇を尖らせる。

「姉様との力の差が埋まらないのです」

「焦って埋まる差でもないだろ。気長にやるしか……あれは」

 竜司は一方に目を注ぐ。赤子は帯に差していた短刀の柄を握った。

 二人の注目を浴びた女の子は横顔で笑った。古めかしい巫女装束は街では目立つ。長い黒髪に手櫛を入れながら脇道に入った。

「赤子達を誘っているのです」

「そのようだな。あれは亡霊ではなくて、妖怪の類いなのか?」

「調べている暇はないのです」

 赤子は滑るように動き出す。竜司は置いて行かれないように小走りとなった。二人が脇道に突っ込むと女の子が待ち構えるかのように立っていた。

「いらっしゃい。おかっぱ頭のアンタ、割と可愛いわね。むさ苦しい姿の亡霊はどうでもいいけど」

「俺が見えているってことは妖怪か」

 竜司は赤子の前に出た。

「その言い方は愛らしさが足りないよ。天邪鬼ちゃんを怒らせると寿命が、もう尽きてたっけ」

 大口を開けてケタケタと笑う。

 赤子が短刀を抜いても変わらない。動じることなく早口の呪詛を垂れ流し、揺れる身体で距離を詰めてゆく。

「遅くて待ち切れないよ」

 天邪鬼はそっと半歩を出し、突風となって赤子の真横に移動した。直後にぐらりと揺れる。

「あれ?」

 踏ん張りが利かない身体が斜めに傾ぐ。天邪鬼の無防備な首筋に赤子の横薙ぎの短刀が襲い掛かる。

 必殺の刃は瞬時に動きを止めた。

「負けん気の強い娘は嫌いではないわ」

 突如、空間に現出した鈍色の穴から花魁衣装を着崩したような女性が現れた。伸ばした手が刃を摘まんでいる。赤子が頬を赤くしても微動だにしない。

 その間に天邪鬼が頭を乱暴に振った。

「この眠気はなんなのよ」

「この娘の能力ね。とても可愛らしいわ」

 女性は金色の瞳を赤子に向ける。直感に等しい身震いで柄から手を離し、後方に跳んだ。逃すまいと足首に一本の尾が巻き付き、残りの八本は手足や胴体を包み込む。

 顔だけとなった赤子は無表情で身を捩る。

「離すのです。赤子の本気を見せるのです」

「おかっぱ、抗うんじゃない! 姉御が、絶対に何とかしてくれる!」

「誰かと思えば、あの者の従者ね。お使いを頼めるかしら」

「……おかっぱの身の安全は」

 竜司は震える身体で言った。

「アンタね。誰を相手にしてると思ってんのよ!」

 立ち直った天邪鬼が声を荒げた。女性は冷やかな視線を横手に向ける。

「この娘に不覚を取った者の態度ではないわね。先に戻っていなさい」

「……はい、わかりました」

 力ない足取りで天邪鬼は空間に出来た穴に入っていった。

 女性は胸元から短冊と筆を取り出し、さらさらとしたためて竜司に手渡す。

「招待状よ。それと日時と場所だけど――」

 目を細めて詳細を語った。

「……姉御には必ず、伝えるからな」

 女性は艶然と笑って穴の中に溶け込み、一瞬で収縮した。

玉藻前たまものまえ、覚えていろよ」

 何もない空間を竜司は睨み付けた。

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