第23話 綺麗なお姉さん

 青々とした畳に黒檀こくたんの座卓が置かれていた。全体が艶やかに光り、重厚感を醸し出す。紺のスーツを着込んだ時田翠子は、ふっくらとした座布団に正座をして詰まらなそうに眺める。

「タールみたいな色ですね」

 隣に座っていた小太りの中年男性が瞬時に顔を向けた。

「と、時田君、急に何を言いだすんだ。場に相応しい話をしてくれないと困るじゃないか」

「社長、まだ先方は来ていませんが」

 冷やかな目で隣を見やる。社長は気圧されたように顔を引いた。硬い表情で口角を上げて無理矢理に笑顔を作る。

「あ、あれだよ。今日は金曜日で道が混んでいるのだろう。そうに違いない」

 両頬を盛り上げて一人で頷く。翠子は無視して床の間に目をやった。薄茶色の壁には掛け軸が下げられていて流麗な文字が墨で書かれていた。

 翠子は一瞥して口をひん曲げる。

「なんですかね、あれは。全く読めないし、イカスミパスタに似てますね」

「時田君、何が不満なんだ」

 社長の声が大きくなる。翠子は蔑むような目付きとなった。

「不満がないと思っているのですか。会社が終わって帰るところを掴まって拉致されたんですけど。これってパワハラでサービス残業ですよね。最寄りの労働局に駆け込みますよ」

「ちょ、ちょっと待って! お、落ち着いて時田君! これは業務ではないから! 食事を楽しむものだから! 支払いは心配ないから!」

「からから煩いです。社長が情緒不安定なのでラマーズ法の呼吸をして私の為にお金を生んでください」

「いや、もうなんだかわからないが、すまない! 取引先の相手と思わないで、ただ飲食を楽しんでくれればいい。秘書の突然の腹痛でこのような事態になったことを心からお詫びする。この通り!」

 脂汗が滲んだ顔で社長は手を合わせた。その姿で何度も頭を下げる。翠子は渋々の溜息のあと、わかりました、と素っ気なく言った。

 二人は正座の姿で時を過ごす。

 社長は腕時計に頻繁に目をやる。小動物のように絶えず、小刻みに動いていた。

 翠子は正座を崩さず、舌打ちした。

「え、なに、今のは? どういうこと?」

 社長は歪な笑顔で動揺した。翠子は何事もなかったように口を閉じている。

「なんだろう。なにか聞こえたような気がしたんだが」

 話の途中で翠子は再び舌打ちした。

「と、時田君! やっぱり君じゃないか」

 横からの非難を無視して翠子は底意地の悪い笑みとなった。ふっと顔を横手の障子に向ける。

「来られたようですよ」

「え、本当に?」

 変化のない障子を見て社長は疑わしい眼付きとなった。翠子は構わず、出入口の近くで仰々しく待機する。

「またまた~、この私を引っ掛けようとして。時田君、悪ふざけが過ぎ」

「お客様、お連れ様がお見えになりました」

 障子が開いて仲居から告げられた。社長は慌てた拍子によろけて仰向けに転がる。足が痺れているのか。すっと立ち上がることが出来なかった。

 翠子は薄目となって、亀ですね、と口にした。

 案内を受けた人物が座敷に入ってきた。身長は翠子と大差ない。さっぱりとした丸顔で目尻に薄っすらと笑い皺が見て取れる。品の良いブラウンのスーツを着込み、ブルーのネクタイが爽やかであった。温厚でいて若々しい好人物に映る。

「お待ちしておりました」

 翠子は丁寧に頭を下げる。社長は床の間の近くに立って場所を示す。

「上山社長、こちらへどうぞお座りになってください」

 翠子はにんまりと笑う。間に合わなかった穴埋めの行動と看破かんぱしたのだ。肩越しに親指を立てて見せると社長は目を剥いた。取り繕うような笑みに変えて上山に調子の良い言葉を並べ立てた。

 翠子は意識を同伴の相手に傾ける。白いスーツを着た若い女性であった。セミロングの黒髪には光沢があり、清楚な印象を与える。うりざね顔に切れ長の目は涼しげで理知的。社長秘書らしい端正な容姿であった。

 女性はその場から動かず、黙って翠子を見詰める。

「なにか、至らない点でもありましたか?」

「いいえ」

 短い一言で済ませると女性は上山の隣に座った。

 翠子が最後に座ると夏の季節に合わせた先付が運ばれてきた。徳利やビールも添えられ、酒席らしい雰囲気に包まれる。

「時田君、上山社長にお酌を」

「そのような気遣いは無用だよ。今日は楽しく食べて飲もうじゃないか」

 上山は用意されたコップに自らビールを注いだ。全員が倣って猪口やコップは好みの酒で満たされた。

 乾杯の音頭を取ることなく、各々の作法に則って食べ始める。翠子は茄子の味噌和えを箸で摘まむ。しっかりと噛み締めて猪口の酒を味わった。

「麹が効いた田舎味噌と茄子の甘さの程が良く、やや辛口の日本酒との相性が良いですね」

 女性はそつのない感想を口にした。翠子が視線を上げると、こちらをにこやかな顔で見ていた。

「私もそう思います」

 話を合わせる。空になった猪口に酒を注いで一気に呷った。

「気持ちの良い飲みっぷりだね」

 上山は目尻に皺を寄せてビールを飲んだ。

「お恥ずかしい限りです」

 社長の一言に翠子は、亀よりマシです、と小声で付け加えた。

「あ、あれはだね。慌てただけで足が痺れたとかではない。断じてない訳で」

「花山社長、何かありましたか?」

「な、何も問題はありません。私の不徳の致すところでして、はい……」

 飲み始めて五分と経っていない。花山の顔は気の毒な程に赤く染まっていた。

 翠子は鼻で笑う。花山の肩をポンと叩いた。

「わかります。よくわかりますよ。飲んで忘れましょう」

「と、と、時田君! あれは失態ではない。違う、誤解だ」

「わかる、わかる」

 ポンポンと続けて肩を叩く。上山と女性は揃って笑った。

 談笑を交えながら食事は進む。一口大の握り寿司はいろどりがよく、目でも楽しめた。口直しの椀物には大ぶりのはもが入っていて歯応えと味の両方を得られた。

 季節感をふんだんに盛り込んだ刺身、山海の珍味で統一された八寸、イボダイのバター焼きでは白ワインが大活躍した。

 締めの五目御飯には味噌汁と御新香が付いてきた。一同は無口になってコリコリと音を立てる。翠子は合間に日本酒を飲んだ。

「少し席を外します」

 女性は翠子の目を見ながら立ち上がる。やや遅れて、私も、と後に続いた。

 座敷を出ると左手の廊下に女性が腕を組んで待っていた。

「どうかした?」

「時田さん、なにも覚えていないのですか」

「あなたのことよね? 今日が初めてだと思うんだけど」

 女性は顔を振りながら溜息を吐いた。

「わたしの視線に気付かないから、そうだとは思っていましたが」

「もしかして私の知り合い、とか?」

 相手を窺うような目でそっと尋ねる。

「時田さんは裂きイカ派。わたしはスルメイカ派です」

「酒の肴には裂きイカが合うよね。スルメイカはあまり食べないけど、あれ、なんだろう。どこかで聞いたような……」

「まだ思い出せないのですか。これが最後のヒントです」

 女性は怒らせた肩を下ろす。深呼吸を経て翠子の目を見て言った。

?」

「……え、えええ! もしかして口裂け女!」

「声が大きいですが、正解です。裂けた口の手術をして無事に社会復帰しました。これ、わたしの名刺です」

 差し出された名刺を両手で受け取る。肩書は社長秘書で名前は『佐々岡恵ささおかめぐみ』とあった。まじまじと見たあと、翠子は慌てて自身の名刺を渡した。

「全く気付かなかったよ。髪はロングじゃなくてセミロングだし」

「時田さんに切られましたから」

「まあ、あれは流れで仕方なく、ね」

「あの包丁を折られたことでわたしは呪縛から解放されました。徐々に自我を取り戻して顔の再生手術も受けました。全て時田さんのおかげです。本当にありがとうございました」

 恵の目に涙が溜まり、微かに語尾が震えた。深々と一礼すると、すぐには頭を上げられなかった。

 目を細めた翠子は恵の頭を優しく撫でる。

「本当に綺麗になったね」

「……はい」

 大粒の涙が廊下の一部を濡らす。翠子は貰い泣きで目を赤くした。

 程なくして二人は持ち直す。目の赤さは気にならない程度に落ち着いた。

 翠子は困ったような笑みを浮かべる。

「そろそろ戻ろうよ。あまり長く席を外していると勘違いされるからね」

「うんこではないです! 長いおしっこです! と時田さんが言ってくれたら大丈夫です」

「どうして私なのよ」

「綺麗なわたしには似合わないと思うので」

 恵は笑って駆け出した。翠子はショートの髪を掻き上げて、言ったわね、と笑顔で凄むのだった。

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