第13話 心の深淵
見晴らしの良いフロア―を貸切にした立食パーティーが催されていた。場所がホテルの為、提供されているバイキング形式の料理は人々の舌や目を楽しませた。
その楽しみを独り占めする勢いで時田翠子は各料理を大皿に盛り付ける。黄色いパーティードレスに染みが付かないように指やフォークを使ってゆっくりと口に運び、飽くなき咀嚼を繰り返す。薄い唇は肉汁にコーティングされて艶やかに光っていた。
翠子は軽く押された。肩口の方を見ると若い女性と目が合った。手に持っていたワイングラスの黄金色の液体がゆらゆらと揺れている。同じ参加者なのか。真紅のイブニングドレスを着ていた。胸元は大きく開き、女性らしい膨らみが際立つ。
「あら、当たってしまってごめんなさい。あなたも参加者ですよね」
「まあ、そうですが」
翠子は女性の胸元に恨みがましい目を向ける。
「紳士淑女が出会いを求める場に相応しい御馳走は他にもありますよ」
「そうよ。食べてる場合じゃない」
たった今、気付いたと言わんばかりに周囲に視線を飛ばす。仕立ての良いスーツを着た男性達の周りには決まって複数の女性がいた。笑顔で詰め寄り、見えない火花を散らしているようだった。
「出遅れた」
小さく舌打ちした翠子は大皿に載せた品々を掻っ込む。給仕役の男性に空になった物を押し付けて会場を巡った。
どこにも空きがない。耳に聞こえてくる景気の良い話の数々に翠子は立ち眩みにも似た動きを見せた。
「来るところを間違えた?」
「僕は来て良かったと思いましたよ」
横手からの声に翠子は即座に反応した。見ると無邪気な笑顔が返ってきた。スーツを着ていたが背は低い。童顔もあって中性的な顔立ちをしていた。
「僕は小柄ですが男性ですよ」
「あ、ごめんなさい。そんなつもりはなくて」
「いいですよ。慣れていますし、あなたという素敵な女性に出会えて、本当に参加して良かったと思っています」
にっこりと笑う男性に翠子は気恥ずかしそうな笑みを返す。
「私も来て良かったと、思いました。あの、お名前を聞いてもいいですか」
「もちろんですよ。そうですね。ここは少し賑やかなので、もう少し静かなところに行きませんか」
「それって……」
「このホテルの最上階にシックなバーがあります。どうでしょう」
「あ、ああ、バーですか! もちろん、いいですよ! ホテルと言えばバーですよね!」
翠子は赤面して笑った。男性は案内するように先に歩き出す。その一瞬、底意地の悪い顔を見せた。
坑道のような薄暗い横長の店内にポツポツと丸い光源がぶら下がっていた。
カウンター席は飴色の木製で仄明るい。後ろのテーブル席は薄暗く、人影が揺らめいて見えた。
「どうです? 落ち着いた雰囲気だと思いませんか」
「そうですね。でも、このような場所にはあまり慣れてなくて」
「心配するようなことは何もありませんよ。気を楽にして」
男性は翠子をカウンター席に誘導した。並んで座ると
「まずは自己紹介から。僕は
シェイカーを振っていた男性バーテンダーの表情が苦々しいものに変わる。
翠子はしおらしい態度で口を開いた。
「私は時田翠子、二十一歳の会社員です。あとは特に語ることもないんですけど」
「コンプレックスは誰にでもあります。僕は言わなくてもわかると思うのですが、この容姿で苦労しました」
勇と翠子の前にカクテルが置かれた。
「飲み易いですよ」
勇はグラスを手に取り、青いカクテルを少量、飲んで見せる。
翠子は赤いカクテルを一気に
「飲み易くて美味しい! もう一杯、お願いします」
男性バーテンダーは無言で作り始めた。
「良い飲みっぷりですね。僕は見た目と同じ、アルコールは嗜む程度で、お恥ずかしい限りです」
「そんなことはないですよ。良い人じゃないですか。私、孤立していてどうしようかと思いましたよ」
「おかげで僕は幸せになれました。翠子さんに出会えたのだから」
翠子の前にカクテルが置かれ、瞬時に飲み干した。火照ったような顔で同じ物を注文する。
男性バーテンダーは
「わかりました」
重々しい口調で新たなカクテルを作り始める。
勇は爽やかな笑みを浮かべた。
「本当に強いですね」
「私が強い?」
翠子の低い声に勇は怯えにも似た表情を見せる。
「あ、いや、腕力的なことではなくて、アルコールのことです」
「ああ、そっちね。それは、まあ、強い方かな」
納得したのか。軽く頷いて出されたカクテルをまたしても一気に飲み干した。
「それにしても美味しいわね。大吟醸とも違う甘さが癖になるわ」
「そうですか。でも、飲み過ぎては折角の夜が台無しになります。実はここのホテルの一室を」
「なんなのよ! あんたは! 私をなんだと思ってるのよ!」
突然の声は後ろからだった。薄暗いテーブル席にいた女性が立ち上がる。周囲を気にすることなく、隣に座っていた人物に怒りをぶちまけた。
「このようなところで困った人達ですね」
振り返った勇は呆れたような顔で言った。
翠子は新たなカクテルをグイッと呷る。
「どうして、そんなに怒るのかな。僕は純粋な気持ちでお姉さんのパンツが見たいだけなんだよ」
「……パンツだと」
翠子は空になったグラスをカウンターに静かに置いた。陰惨な笑みで声の出所に顔を向けた。
爽やかな青年が目に留まる。場所に合わせてスーツを着ていた。
「緑野郎、こんなところにいたのね」
翠子が拳を握ると生木を圧し折るような音がした。禍々しい瘴気とも言える雰囲気がどろりと溢れ出す。
勇は全身を震わせる。恐怖に満ちた顔で椅子から転げ落ちた。
「こ、こ、これは、そんな。あり得ない……鬼が」
「鬼がなに? まずは椅子に座ろうね」
翠子は勇の口に掌を押し付けて瞬時に握る。その状態で軽々と持ち上げて隣の椅子に座らせた。口に被せた手は外れていない。指先は顔面に食い込んでいた。
「あんた、もしかして心の中が読めたりする?」
激痛に耐えるような表情で顔を縦に動かした。翠子はにっこりと笑う。
「なるほどね。私の好きなタイプだったのに。勝手に心を覗かれたら、とてもじゃないけど許せないよね。このまま握ってミンチにしちゃおうかなー。そうだ、明日の夕食は手ごねハンバーグにしよう」
勇は顔を左右に振った。目には涙が溜まっている。まともに喋れない状態で、許して、と掠れた声を漏らした。
物騒な遣り取りを耳にしたのか。テーブル席にいた青年は怒りが収まらない女性を残して店外へと走り出す。
「逃げるな、緑野郎!」
翠子は振り被って勇を投げ付けた。青年は軽く跳んで
「またパンツを見せてね」
「見せるか! 人を痴女扱いするな!」
追撃の姿勢の直後、翠子は男性バーテンダーに目をやった。
「騒いでごめん! 支払いはあの伸びた男がするから」
「わかりました。こちらこそ、助かりました。アレは女性を食い物にするような
「童顔で好みだったんだけどね、じゃあ!」
程々に飲んだ翠子は赤鬼となって青年を追い掛けた。
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