第14話 ポイ捨て禁止

 その日、時田翠子は山に訪れていた。

 ベージュのサファリハットを被り、強い日差しに備えた。水色のパーカーの下には速乾性に優れた黒のインナーウェアを仕込んでいる。白いハーフパンツは歩き易く、肌を守る為に黒のスパッツを穿いた。携帯食料や細々とした物はオレンジ色のリュックサックに収めていた。

 登山道に足を踏み入れて十数分。渓流のせせらぎが聞こえてきた。横手に顔を向けると細い木々の合間から清らかな流れを目にすることができた。

 更に数分後、はしゃぐ子供の声が耳に入った。冷たいと言いながら楽しそうな笑い声を上げる。翠子の表情が自然と和らぐ。

 迫り出した岩と木々に挟まれた細い道は緩やかに右手に曲がる。その先には三本の丸木で作られた橋があった。軽やかな足取りで踏み出し、中程で立ち止まる。

 下方の渓流には親子がいた。顎髭を蓄えた父親は釣りを楽しみ、近くにいた小さな男の子は小石を拾って太陽にかざしている。

 翠子は微笑んで挨拶をした。

「こんにちは」

「こんにちは。山登りには良い日和ですね」

 父親は糸を垂らした状態で朗らかに返した。小声で子供にも挨拶を促す。

「お姉ちゃん、こんにちは!」

「こんにちは。綺麗な石を拾えた?」

「うん、これ!」

 男の子は緑色の石を掲げて見せた。その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。

翡翠ひすいかな。綺麗な緑色だね。じゃあ、お姉ちゃんは行くね。今日を楽しんで」

「うん、ばいばーい!」

「危ないから飛び跳ねない」

 父親は軽く注意して苦笑いを浮かべた。

 微笑ましい光景に翠子は目を細めて橋を渡り切った。

「緑色の石……あの緑野郎が……」

 自身の凶悪な顔をぎこちない笑顔に変えて連想を打ち切った。冷やかな木蔭の道を無言で上っていく。時と共に瀬音は遠のき、野鳥の鳴き声が占めるようになった。

 陽光を遮る枝葉で道は薄暗く、木の根に浸食されて起伏が激しい。翠子は軽い跳躍で乗り越えた。リュックサックの側面の網に入れていた水筒を抜き取り、歩きながら水分補給を行なった。

 軽快に足を進めて、唐突に立ち止まる。翠子は怪訝けげんな顔で後ろを振り返った。

 巨大な毛玉が道を塞いでいた。頭部と思われる辺りに大きな目玉が一つ。感情の籠らない目を向けてきた。

「なによ、あんた」

 押し黙ったままであった。耳らしい物も見当たらない。翠子は鼻で笑って道を上り始めた。

 石が突き出した急勾配きゅうこうばいを物ともせず、連続の跳躍で易々と越えてゆく。先は見晴らしの良いところに繋がっていた。

 左手は切り立った崖で道の端が少し崩れていた。右手は鬱蒼とした木々が密集して、なだらかな下り坂の奥は深い闇に覆われている。

「問題ない、こともないか」

 歩いていくと道の先に巨大な毛玉が居座っていた。完全に道を塞いでいる。翠子の鼻筋に不穏な皺が寄った。

「そこ、退きなさいよ」

 毛玉は大きな目玉を横に動かす。釣られて見ると木々の合間に細い道が確認できた。下っている状態は帰り道を窺わせる。

「あのね、私は山頂を目指しているの。わかるよね? だから、あんたがその道に行けばいいのよ」

 言葉を切った。毛玉は動こうとしない。大きな目玉で翠子を見ていた。

「……わかったわ」

 片方の唇の端を吊り上げる。犬歯が見える笑みで右腕をだらりと下げた。輪郭がぶれて赤銅色の腕が引き抜かれた。瞬く間に腕全体を金色こんじきに染め上げ、毛玉の頭頂を鷲掴みにした。

 躊躇ちゅうちょなく、左手に向かって放り投げた。

「ポイ捨て禁止、ポイ捨て禁止――」

 急速に遠くなる崖下の声を無視して翠子は歩き出す。

「……喋れるのね」

 一言の感想で道を踏み締めて上がっていく。翠子は歩幅を狭めた。サファリハットのつばを軽く親指で弾いた。

 またしても毛玉が行く手の道を塞いでいた。目が合うとやや前のめりとなった。

「ポイ捨て禁止、ポイ捨て禁止、ポイ捨て禁止」

「あんたが邪魔をするからだよね? で、誰なのよ」

「土ころび。山の神様。ポイ捨て禁止」

「神様がどうして邪魔をするのよ。何がしたいの? 目的は何なのよ」

 土ころびは無反応で突っ立っていた。ぐにゃりと身体を真横に曲げる。その態度に翠子は大袈裟な溜息を吐いた。

「質問が多過ぎたのね。道を塞いだ理由は?」

「行かせない」

「別の道があったけど、あれも山頂に繋がっているのよね」

「繋がってない」

 即答であった。翠子はスマートフォンを取り出し、数秒でパーカーのポケットに戻した。

「電源が入らないんだけど、あんたの仕業?」

「わからない」

「話を戻すわ。行きたい道は通さない。別の道を選ぶと山頂に行けない。ここまではわかったわ。目的は何なのよ」

「迷子にする」

「完全に嫌がらせだよね、それ。あんた、本当に神様なの?」

 土ころびは左右に身体を曲げた。同じ動作を延々と繰り返した。

「どうでもいいわ。そこ、退いてくれる?」

 土ころびはピタリと動きを止めた。大きな目玉を真横に動かす。呆れた顔で翠子が従うと下草を踏み締めて出来たような獣道を見つけた。木々を縫うようにして、ひたすら下っていた。

「わかったわ」

 翠子はにっこりと笑う。

「ポイ捨て禁止、ポイ捨て禁止、ポイ捨て禁止――」

 先程と同じ手段で土ころびを崖下に投げ捨てた。

 奇妙なものに付き纏われながらも翠子は山頂に到達した。満面の笑顔で独りっきりの眺望ちょうぼうを楽しむ。

「捨てる神あれば拾う神あり、ってどちらも私だけどね」

「……ポイ捨て……禁止……」

 金色の右手に握られた毛玉が頭上から苦しげな声を漏らす。

「投げても戻ってくるなら、握ったままでいればいいのよね」

「お化け。化け物」

「あんたみたいな怪物に言われてもねぇ」

 余裕の笑みで返した。

「胸ぺったん。胸鉄板」

「……人には限界ってもんがあるのよ」

 翠子は軋む笑みで毛玉を崖下に放り込んだ。

「まだ終わりじゃないわ! 戻ってきたら、覚悟しなさいよ!」

 左右の犬歯を露わにした。残忍な笑みで指を鳴らす。足元にあった石を踏み潰して待ち構える。

 爽快な空に相応しい風が吹いた。

「戻って来いやああああ!」

 十数分後、奇妙な山彦が辺りに響き渡った。

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