第4話 小さな巨人

 住宅街の中にぽつんと公園があった。囲うように桜が植えられ、春には赤ら顔の大人で大いに賑わう。遊具と呼べる物はほとんどない。隅の方にある砂場は主に犬や猫が用を足す。

 日曜日の午前もあって公園は閑散としていた。全体を見渡せるベンチに時田翠子が貸切の状態で座っていた。夏用の黒いスポーツウェアには微かな汗染みが見て取れた。

 手にしていたペットボトルの中身を豪快に呷る。コツンと底をベンチに打ち付けて穏やかな表情となった。

「あ、いた!」

 横手からの声に翠子は苦笑いを浮かべた。横目を向けると小さな女の子が走ってきた。首周りの緩いピンクのTシャツに白いホットパンツ姿であった。

 翠子は負けずに笑顔で飛び出す。瞬間的に女の子の腋の下に手を入れた。一気に頭上に掲げてくるくると回る。

「ほーら、高い高いだよー」

「こらー、天才児をバカにするなー」

「もっと高い高い」

 回るのをやめて空へと軽く投げ上げる。

「そんなことされても、楽しいぞ! わー、たかーい!」

「ほーら、高い高い」

 女の子は小鼻を膨らませた。興奮した顔で何度も黄色い声を上げる。

 頃合いと判断した翠子は下に降ろした。

「楽しんだらお家に帰ろうね。バイバーイ」

「またねー」

 女の子はおさげを弾ませて帰っていった。

 笑顔で見送った翠子はベンチに戻る。疲れた表情でペットボトルの中身を飲んだ。

「ちがーう!」

 猛然と女の子が戻ってきた。滑って止まると翠子に人差し指を向けた。

「おもしろい話を聞きにきたんだからね!」

「そうなんだー。てっきり高い高いがして欲しいのかなー、って思ったわけよー」

 間延びした声のあと、片手で頭を掻いた。飛び散る汗に女の子は怯んだ。上体を捩じって顔を真っ赤にした。

「こらー、翠子。体液、飛ばすなー!」

「いや、待ってよ。その表現はやめて」

「翠子が体液を飛ばしてくるー!」

 小さな身体を大きく使って地面を踏み鳴らす。

 思わず、翠子の腰が浮いた。弱々しい笑みで手を伸ばしたものの、漏れなく女の子に平手打ちにされた。

「綺麗な汗だよ。青春の結晶だよ。ね、そんなに興奮しないで」

 なだめながら目で周囲を窺う。桜の木の向こう側に二人組の主婦らしい人物がいた。こちらを見て何かを囁くと足早に離れていった。

 翠子は軽く両手を挙げた。

「降参です。もうね、これ以上、近所の評判を悪くしないでよ」

「わかればいいのよ。あと、汗も体液だからね!」

 笑顔となった女の子はベンチに背中から飛び乗った。空いている横を手で叩く。翠子はぎこちない笑みで隣に座った。

「じゃあ、おもしろい話をして。緑人間と屋台オヤジは聞いたから別の話にしてね」

「そうなると……あれかな。ちなみに口裂け女って聞いたことある?」

「有名な古典だよ! 口にマスクを付けて『わたし、きれい?』って二択を迫る話だよね。それがどうしたの?」

「そうなんだ。それっぽいのに会ったから」

 女の子は翠子の膝を叩いた。すごい、と唾を飛ばして連呼した。

「二択は! 答えたんだよね! ごめん、体液、飛んじゃった」

 口元を手の甲で拭う。

 何か言いたそうな顔で翠子は話を続けた。

「まあ、話の流れで綺麗って答えたんだけど」

「本当に!? すごい、生きてるよ!」

 今度は体中を叩かれた。

「あ、わかった。飴とかポマードを使ったんでしょ!」

「無かったから裂きイカを見せたら怒られたよ」

「すごいバカだけど生きてる! どうして! マスクは外さなかったとか?」

 ぴたりと引っ付いた女の子は翠子を揺さぶる。

「マスクは取ったよ。本当に口が裂けていて顎が外れたのかと思ったよ。成り行きで包丁も向けられたけど、なんとかなった」

「なんとかなるの?」

 女の子は顔を寄せてくる。体温の高さのせいなのか。翠子の頬を一筋の汗が流れて落ちた。

「包丁の先を摘まんだら折れた」

「すごい、化け物くらいにすごい!」

「どんな褒め言葉よ、それ」

 女の子は翠子を掴んで揺さぶる。話の続きを催促した。

「とにかく血みどろの展開は避けられて、あとは二人でビールを飲みながら駐車場で話をしたわ。長い間、誰とも会話をしてなくて寂しかったみたいね」

「聞きたい! すごく知りたい!」

「楽しい話ではないと思うんだけど」

「焦らすの禁止! 早く教えて!」

 好奇心と怒りが女の子を衝き動かす。

 翠子は新緑の桜を見た。思い出に耽るような目で口を開く。

「口裂け女は引き継がれるんだって。初代の口裂け女の正体はわからないけど、口を裂かれた被害者は次の口裂け女として生きていくことになるらしい」

「治療したらいいのに。顔が元に戻ったら、同じことをする必要もないんじゃないのかなぁ」

「受け継ぐと自由が利かなくなるそうよ。今までの口裂け女の憎悪に心が満たされて、無条件で人間を憎むようになるって本人が言っていた。私は例外らしく、彼女は素の自分に戻れたみたいね」

「だって翠子は化け物だもん!」

 親指を立てて笑顔を見せる。翠子は頬を震わせて否定した。

「人間の心が戻ったのなら、その口裂け女さんは、もう人を襲わないよね」

「それはどうかなぁ。彼女、とても不安定な状態に思えたし。本人もどうなるかわからないって……」

 女の子は翠子の肩を叩いた。

「翠子、顔が暗いよー。もっと明るく笑って。顔だけは悪くないんだから」

「他も悪くないから。全然、いけてるから」

「ママだ!」

 女の子はベンチから飛び降りた。公園の外に駆けて行く。

 ようやく解放された翠子はベンチに深々と座った。

「おもしろい話が聞けたよ!」

 女の子の声が耳に届いた。翠子は姿勢を正して一方に耳を傾ける。

「翠子がね、口裂け女を剛腕で捻じ伏せたんだよ!」

 耳にした瞬間、翠子は韋駄天いだてんとなって逃げ出した。

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