第3話 わたし、綺麗?
時田翠子はいつもより早い帰宅に気を良くした。ワンルームマンションの自室で西日の当たる窓を眺めながらビールを飲み始める。肘掛けと兼用の座卓には空になったロング缶が二本となった。
「ビールが甘いわ~」
持っていた缶を振ると音がしない。三缶が仲良く座卓の上に整列した。
翠子は傍らのビニール袋に目を落とす。痩せ細って寝込んでいた。
「仕方ないなぁ」
立ち上がるとスーツを脱いで速やかにジャージに着替えた。二つ折りの財布はズボンの後ろのポケットに押し込んだ。
部屋を出る間際、掌に拳を打ち付ける。
「緑野郎が出たら……フフ」
覗いた犬歯は牙を思わせた。
三十分後、翠子はビニール袋を提げて路地を陽気に引き返す。夕焼けの色は濃さを増して今にも滴り落ちそうであった。
翠子の眼付きが鋭くなる。歩く速度を微妙に変えた。疑念は確信に変わり、一層、表情を険しくした。
「この緑野郎!」
振り向き様に怒鳴る。
「え、誰?」
瞬時に怒気は失せて目を瞬く。翠子の予想は外れた。
背後にいたのは赤いワンピースを着た痩身の女性だった。黒髪は長く、所々が
「わたし、綺麗?」
女性は高い声で問い掛ける。
翠子はあからさまに嫌そうな顔をした。
「顔のほとんどが見えない状態で訊かれても困るわ」
「わたし、綺麗?」
女性は言いながらサングラスを外した。切れ長の目が翠子を捉えた。
「凛々しい目とは思うけど、鼻と口が見えないと何とも言えないわ。それじゃあ」
翠子は踵を返した。女性は回り込んで前に立ち塞がる。
「ちょっと待って。普通は気になるよね? わたし、二回も訊いたんだよ。答えてくれてもいいんじゃないかな」
「ちゃんと答えさせたいならマスクを外せばいいじゃない」
「あなたが答えてくれたらマスクを外すよ」
女性は強い口調で反論した。
翠子は溜息を吐いた。ちらりとビニール袋を見て言った。
「鼻は低くなさそうだし、まあまあなんじゃないの」
「まあまあって何? こっちは」
言葉の途中で口を閉ざした。女性は
「……あなた、もしかしてわたしを知らないの?」
「どこかで会った?」
「初めてだと思う」
「それなら知りようがないよね」
翠子はビニール袋に頻繁に目をやる。苛立った右足が小刻みに動いていた。
「わたし、それなりに有名なんだけど。普通は『わたし、綺麗?』の台詞で気付いて、用意していた
「あ、そういうことね。仕方ないなー」
途端に表情を緩めた。ビニール袋から裂きイカを取り出す。
「二つあるから遠慮しないでいいよ」
「ふざけないで。わたしは
「飴はビールの
いきなり目を剥く。ロング缶のビールを掴み出して声高に言った。
「あんたの長話のせいでビールが温くなったわ!」
「え、わたしのせい? あなたが質問に答えてくれないから」
「もう、いい!」
翠子はプルタブを起こし、プシュッと小気味良い音をさせた。溢れる泡は口で蓋をして、その場で飲んだ。先程の裂きイカの袋も開けた。
「あんたはどう答えて欲しいんだ。はっきりしろ」
「どうって……マスクの中を見たいなら、褒めた方がいいと思う」
「あー、はいはい。綺麗だよ」
裂きイカを食べながらビールを流し込む。
女性は目で笑った。マスクの片方に手を掛けて一気に剥ぎ取る。
「これでもか!」
顎が外れたかのような大口を開けた。よく見ると口の両端が切れていた。
翠子は裂きイカをくちゃくちゃと音をさせて食べている。
「その顔芸がどうした?」
「え、綺麗って答えたから『これでもか』と素顔を晒したんだけど……驚かないの?」
「そういう顔なんでしょ。じゃあ、反対に訊いてあげる」
歯の間に挟まったイカを指で掻き出す。舌先で確かめて話に戻った。
「爽やかな青年の目が急に落ち窪んで、中の穴から小さな緑色の人間みたいなのが出てきたら、どう思うよ」
「え、何それ!? 気持ち悪い」
「屋台のオヤジがクマみたいにでかくて、両手を握り合わせると酒がボタボタと溢れて、それをグラスに入れて客に飲ませる。どう思うよ」
「不衛生でしょ! わたしは絶対に無理。そんなの飲めない」
女性は嫌悪感を露わにした。両手を振って拒絶する。
「知られてないだけで、世の中は不思議で溢れているの。あんたみたいなのは、よくいて普通。驚く対象じゃない」
「……そうなの?」
「そうなんだよ」
翠子は缶を呷る。一気に飲み干してビニール袋に入れた。
「じゃあ、マスクで隠さなくてもいいのかな」
「それはやめとけ」
「どういう意味だぁぁぁ」
野太い声は別人を思わせた。いつの間にか右手には包丁を握っていた。切先は翠子の首を狙っている。
「普通なんだよ」
一気に距離を詰めた翠子は切先を摘まんだ。無造作に折って指で弾く。女性の首を掠めた。一部の髪は切断されてはらりと地に落ちる。
「え、ウソ」
女性は目を下に向けた。事実に呆然となった。
「マスクを付けろ」
「あ、そうですね」
女性は大人しく従った。少し頭を下げて翠子に遠慮がちな視線を向ける。
「まだ何かある?」
「そのぉ、こんなに人と話したのは、久しぶりなので……」
「……残りのビールも温くなった。冷蔵庫で冷やすと時間が掛かる。買い直さないといけないなぁ」
「そうなんですか?」
女性は不思議そうな声で言った。
翠子はコンビニエンスストアの方向に歩き出す。路地の半ばで立ち止まって振り返る。
「冷えたビールがないと会話も弾まないでしょ。あんたの肴は飴でいいんだよね?」
「飴は大嫌いなのでスルメイカにします」
「裂きイカと変わらないじゃない」
呆れた様子で返した。すると女性は早足で横に並んだ。
「全然、違います。裂きイカは生のイカから作りますが、スルメイカは内臓を取り除いて乾燥させたものを言うんです」
「細かいよ。どこの業者よ」
翠子は苦笑いで返した。
「あなたが大雑把すぎるんです」
肴の薀蓄で盛り上がる。
夜が染み出した夕陽の中、二人は揃って溶け込んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます