7-12

2月8日(Thu)


 上野恭一郎は東京拘置所の長い廊下を曲がって後ろを向いた。彼の後方には木村美月が立っている。


『面会時間は15分だよ。行っておいで』

「……はい」


美月の表情は強張っていた。初めて訪れる拘置所の異質な雰囲気に彼女は緊張している。


 上野が扉を開けた部屋に彼女はひとりで入った。背後で扉が閉まり、美月は用意された椅子に座って相手が来るのを待つ。

鼓動が速いのはどうして?

こんなに緊張しているのはどうして?


殺風景な部屋は中央を透明なアクリル板であちらとこちらが仕切られている。その仕切りはそのまま、犯罪を犯した者とそうではない者の境界線を意味していた。


 美月が部屋に入った数分後に仕切りの向こうの扉が開いた。部屋に入ってきた長身の男は仕切り越しに美月を見て微笑んだ。美月も彼に微笑み返す。


『こんな場所まで来てくれるとは思わなかった』


佐藤瞬は透明なアクリル板の向こう側の椅子に腰を降ろした。美月と佐藤が顔を合わせるのは佐藤の逮捕以来だ。


「隼人が会いに行って来いって言ってくれたの。服や下着の差し入れ、係りの人に渡したから使って」

『ありがとう。ごめんな。面倒かけて』

「私が好きでやってることだからいいの。隼人も承知してるよ」


 佐藤の境遇は美月も隼人も知っている。佐藤には服役中に服やその他の雑多な差し入れをしてくれる両親はいない。

佐藤瞬としての人生を12年前に終わらせている彼には面会に訪れる人もいない。

でも佐藤には美月がいた。


『木村くんの具合はどうだ?』

「順調に回復してる。来月には職場復帰するんだってはりきってるよ」

『そうか。斗真くんはどうしてる? 監禁されていたんだ。大変なことはないか?』

「斗真は……あれから怖い夢を見るようになって夜中に起きちゃったりしちゃうの。だけど幼稚園も行けてるし、隼人の幼なじみの麻衣子さんがカウンセリングしてくれてる。美夢も元気に育ってるよ」


隼人と子ども達の近況を聞いて佐藤は安堵の溜息を漏らした。


『斗真くんは心配だが皆、一応は元気そうだな』

「うん。佐藤さんは……元気そうだねって言うのはここではおかしいのかな?」

『おかしくはないね。煙草が吸えなくて多少は苦しいが』

「煙草吸えないって入院中の隼人と同じこと言ってる」


 佐藤はアクリル板の向こうで笑う美月を見つめた。最後のデートが終わればこれっきり彼女とは会えないと思っていた。

手を伸ばせば届く距離に、美月がいてくれる。


『美月はどうなんだ?』

「私は変わらず。隼人と子ども達の世話で大忙し」

『元気そうで安心したよ』

「毎日忙しいと泣く暇もないのね。泣いたってあなたと一緒に居られるわけじゃないもの」


 美月は仕切りに顔を近付けた。佐藤も顔を近付け、二人の手のひらが仕切り越しに重なった。

この透明な境界線さえなければ二人は抱き合い、互いのぬくもりを感じられるのに。


『もうここには来るな。俺のことは忘れて、木村くんと子ども達と幸せになれ』

「……私はね、欲張りなんだよ」


微笑して首を横に振った美月の目尻が潤んでいる。


「あなたのことは忘れない。忘れることはできないの。私は今でもあなたが好きよ」


 美月は心情を吐露する。佐藤も美月と同じ気持ちだった。しかし彼女の今後を考えれば犯罪者と関わりを持つべきではない。

自分の存在が美月の人生の足枷あしかせになるのではと佐藤は恐れていた。


「昔はこんな欲張りな自分が嫌だった。佐藤さんのことが好きなまま隼人と付き合っていていいのか悩んだりもしたの。でも今は欲張りでもいいかなって思うんだ。佐藤さんと隼人と……どちらかを選ぶなんて私にはできない。どちらも私には必要な人。あなたの恋人でもあり、隼人の妻でもありたい。身勝手で最低な女だと思うよ。だけどそれ以外には考えられないの」


美月の涙が限界を越えて溢れ出す。境界線で阻まれた佐藤には彼女の涙を拭ってやることもできず、もどかしい。


「その気持ちを正直に隼人に打ち明けたの。そうしたらね、隼人も同じだった。隼人も莉央さんのことまだ好きで忘れられないって言ってた。私達は似た者夫婦みたい。でもそれでいいの。私も隼人も欲張りなんだ」

『それが……二人が決めた結論なんだな?』


佐藤の瞳も涙で潤んでいた。


 どうしてこんなに心が熱い?

 どうしてこんなに彼女が愛しい?

 好きで好きでたまらない永遠の恋人。


「うん。だからこれからも会いに来ます。手紙も書くよ。隼人も佐藤さんに手紙書くって言ってた」

『ははっ。木村くんからの手紙は読むの少し怖いな』

「佐藤さんはひとりじゃないよ」


彼には面会に訪れる両親はいない。出所できたとしても帰りを待っていてくれる人はどこにもいない。そう思っていた。


「私達が佐藤さんをひとりにはさせないよ。私も隼人もあなたの帰りを待ってる。いつか三人で一緒にお酒飲もうって隼人が言ってたよ」


 係員が面会終了を告げに来た。額を押さえてうつむく佐藤に優しく声をかける。


「また会いに来るね」

『……待ってる』


顔を上げた佐藤は涙を流しながら呟いた。


 12年かけて出したそれぞれの答え。

大切なものは大切なままで両手いっぱいに抱えていたい。


ずっと待ってるよ。またね、また会おうね。

彼女の未来にはいつまでも彼がいる。

あなたを愛しています。



第七章 END

→エピローグ に続く

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