7-11

2月5日(Mon)


 JSホールディングス経営戦略部のフロアに現れた坂下菜々子を見て、同僚の朝倉瞳は感嘆の声を漏らした。


「えっ……? 坂下さん……?」

「おはようございます」


戸惑う瞳に菜々子は大きな声で挨拶をする。経営戦略部の他の社員達も菜々子の姿に目を見張った。

瞳はまじまじと菜々子を見た。先週の金曜日までの菜々子とは印象がまるで違う。


あまりにも瞳や周りの視線が突き刺さって、菜々子は恥ずかしげに顔を伏せた。


「やっぱり……どこか変ですか?」

「ううん! そんなことない、可愛いよ! この髪の色も可愛い!」


 伸ばし放題だった菜々子の長い髪はショートカットになり、髪色も遠目で見れば黒っぽいが光に当たるとほんのりと茶色く染まっているのがわかる。


「コンタクトにしたんだね」

「まだ慣れなくて変な感じなんですけど……」


眼鏡を止めてコンタクトに変えた。コンタクトも染髪も、髪をここまで短くしたのも人生初の挑戦だった。眼鏡と髪の毛で隠してきた顔を思い切って表に出してみた。


 菜々子と瞳は隣同士の席に腰を降ろす。朝のミーティング前の二人の話題はもっぱら、菜々子のイメチェンについてだ。


「でもお化粧のやり方がわからなくて。何を揃えたらいいのかお店で見ていても混乱してしまうんです」

「うーん……そうね。あとは眉毛を整えればもっと顔が明るく見えるよ。顔の印象は眉毛で決まるの。髪を染めたなら眉毛の色も変えた方がいいから私のオススメ教えるね」


 瞳がオススメの化粧品を一覧にしてメモに書いてくれた。菜々子が持っている化粧品と言えば日焼け止めとファンデーション、リップクリームのみ。ファンデーションの色も肌色と肌質に合っているかわからずに使っている。

眉毛用のマスカラがあることも瞳に教えられて初めて知った。美容に無頓着だった菜々子には何もかも未知の世界だ。


 昼休みになり、社員食堂でランチタイムを過ごす菜々子と瞳。


 菜々子の昼食は栄養バランスを考えて作った手作り弁当だ。健康診断でも常に標準の判定を受けてきた菜々子の体型は特別痩せてもなく太ってもいない。

今の体型のままでも健康上の問題はない。けれど健康的かつ綺麗な身体になりたいと彼女は思った。


標準、普通、平均的、無難。そんな評価で埋め尽くされた人生を変えてみたくなった。


「なんで急にイメチェンしようと思ったの? もうすぐ春だから?」


 対面にいる瞳の昼食はカロリーの高そうなラーメンセット。

よく食べるわりに瞳は細身だ。昼食には食べたい物を食べる代わりに無駄な間食をしないことが瞳のルールらしい。

菜々子はほうれん草のごま和えを口に運ぶ。それをしっかり噛んで、飲み込んだ。


「木村主任と奥様を見ていて思ったんです。これが愛なんだなぁって……」


おどおどとした話し方も直せるように、話し方や発声の本を読んで声の出し方にも気をつけるようになった。


「ああ、坂下さんは木村主任が刺されるとこ見ちゃったんだよね」

「あの時は本当に怖くて恐ろしくて……。だけど主任は血まみれで倒れながらも奥様に電話をかけていたんです。意識を失う寸前まで必死に。病院で奥様とお話する機会があったんですが奥様も主任は絶対に死んだりしないって信じていらっしゃって」


菜々子と瞳の近くにいた女性社員達が神妙な面持ちで菜々子の話に聞き耳を立てている。


「お二人を見ていて、想い想われる人がいるって素敵なことなんだと思いました。私はこれまで自分に自信がなくて、人と話をするのも怖がっていました。だけど怖がってばかりじゃ人との関係は築けないんですよね」


 隼人と美月の間には信頼が結ばれていた。男と女だとか、夫婦だからとか、それ以前に彼らは人と人として信頼し合っていた。


「そうだね。やっぱり信頼って言うのかな。そういうものは互いに心を見せ合わないと生まれないよね。心を隠したままだと相手にも信頼されない」

「ですよね。そう考えると私は誰にも心を許してこなかったのかもしれません」


 心を隠して偽りの自分を演じていても人間関係は築ける。インターネットの人間関係はその筆頭だ。

ネットは本名も知らない者同士が職業も年齢も関係なく気軽に繋がれる場所。ネットの中では現実の自分とは別の人格を作り上げることも可能だ。


けれどデジタルな繋がりは時として脆い。

アカウントを削除すればサヨナラ、フォローを外せばサヨナラ。ネットの中で楽しく会話をしていても、指一本で消してしまえる儚い関係。


 ツイッターであんなに仲良くお喋りをしていた〈あーりん〉は2月になってアカウントを削除したらしく、二度とネットの中で会えなくなってしまった。

〈あーりん〉の本名も連絡先も知らない。アカウントを削除すればサヨナラ。そんなものだ。


 気楽で気軽な関係は楽でいい。それが人生の救いとなって必要な時もある。

菜々子も〈なっぱ〉のツイッターアカウントは削除できない。自分にはまだ必要な場所だからだ。


でも心の繋がりのない一時のデジタル文字の果てに何が残る?

ネットの中の友達を数えて理解者がいると安心して、でもそれでいいの?


ネットの友達が〈友達〉だと思っていた。菜々子のツイッターのフォロワーの814人が味方だと思っていた。

〈あーりん〉がいなくなってフォロワーは813人になった。本当に813人の彼らは菜々子の友達? 味方?


「今の自分から変わりたいって思った時に発想が単純でお恥ずかしいんですけど、髪を切りたくなって。髪を切ったらコンタクトにしたくなったんです。外見が変われば少しは前を向いて歩けるような気がして」


 無性に友達が欲しくなった。恋もしてみたくなった。リアルの、本物の。

隼人と美月のような血の通った人間関係を築きたくなった。


「それは木村主任と奥様が一歩を踏み出すきっかけをくれたのかな?」

「はい。本当に素敵なご夫婦なんです。主任、早く復帰されるといいんですが……」


 隼人はまだ入院中だ。

菜々子が退院してから一度、瞳や経営戦略部の同僚達と隼人の見舞いに訪れた。その時は2月中の退院を目指していると隼人は言っていた。


「吉川副主任の話では木村主任は来月には復帰するみたい。田崎部長も年度が変わるまでには木村主任に復帰して欲しいんだって。主任は田崎部長の片腕だから大怪我してもゆっくり休ませてもらえないのよねぇ」


 瞳は時折、部長クラスの情報に詳しい。新入社員の菜々子は田崎部長と直接話す機会も皆無だ。瞳がどこから部長や次長の情報を入手しているのか以前から気になっていた。


気さくな瞳も完全には菜々子に心を見せていないのだろう。

菜々子が心を見せ始めたら、瞳もいつかは話してくれるかもしれない。仕事が終わると必ず左手薬指につけるシルバーの指輪のことも。


「ね、今日一緒に化粧品買いに行かない? 坂下さんに似合う物ひとつずつ揃えていこうよ」

「はい! 行きます」


 ゆっくりでいいから前向きに。自分らしく。

人は変われる。変わりたいと思った時から最初の一歩は始まっている。

一歩ずつ人生を歩いていこう。


 太陽の光が暖かい2月の初め。

今日の東京、天気は晴れ。

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