7-7
抑えきれない想いが溢れ出して思わず美月を抱き締めていた。後から後悔しても遅いのに自責の念が心を蝕む。
深夜の警察署内は静まり返っていた。医務室を後にした上野は鎌倉警察署の表玄関に向かう。二人の守衛が上野に敬礼し、上野は彼らに目礼を返す。
真冬の午前1時、外は凍える寒さだが月が綺麗な夜だった。上野は車のボンネットにもたれて月を見上げる。
美月に気付かれただろうか。彼女は気付いてしまっただろうか。
『風邪引きますよ』
横から聞き慣れた声がした。コートを着こんだ早河が缶コーヒーを二本持ってすぐそこに立っている。
『冬の月見ですか?』
『そんなところだ』
早河が差し出した缶コーヒーを上野は受け取る。缶の温かい熱が、かじかんだ手にじんわり染みた。
上野はそのままボンネットに、早河は運転席の扉にもたれてコーヒーをすする。
『早河。美月ちゃんを子ども達のいる病院まで送ってやってくれないか? 彼女も早く斗真くんに会いたいだろう』
『わかりました』
早河はそれ以上は何も言わなかった。何も聞かず、彼は上野の側で澄んだ夜空に浮かぶ月を眺めている。
今宵の月は半月が少し膨らんだ形をしていた。あと数日で満月になる月だ。
上野と早河はかつての上司と部下であり、世代を越えた友人でもある。今の上野の胸中を早河は察していた。
『はぁー。寒っ……。俺は中に戻りますね。このままだと冗談抜きに風邪引きます』
『俺も戻る。佐藤に話があるからな』
冬の月見のコーヒーブレイクも長くは続かない。上野と早河は身を竦めて署内に逃げ込んだ。
刑事課のフロアに戻った上野は取調室に入り、佐藤の取り調べを担当する警視庁の刑事達を召集した。
『すまないが席を外してくれ。佐藤と二人で話をしたい。記録もつけないでいい』
『ですが……』
『安心しろ。こいつとは長い付き合いだ。取り調べの休息がてらの思い出話をするだけだ』
怪訝な顔の刑事達を追い出して室内には上野と佐藤の二人だけとなる。佐藤が釈然としない表情で上野を見据えた。
『あなたと話せる思い出に心当たりはありませんが』
『あったとしてもろくな思い出じゃないしな。今は刑事ではなく男としてお前とサシで話がしたい』
取調室の椅子を引いて上野は佐藤の向かいに座る。彼は警視庁捜査一課の刑事の証であるピンバッジを外して、警察手帳と共に机に置いた。
『男として? 一体何を……』
『美月ちゃんの話だ』
明らかにそれまで平常心を保っていた佐藤の顔色に揺らぎが加わった。
『美月はどうしていますか?』
『泣き疲れて医務室で休んでる』
『あいつ……ここに着く直前も車の中で泣いていたんですよ。あんなに泣かれるとは思わなかったな』
それはここに現れた時の美月の泣き腫らした目を見れば一目瞭然だった。
彼女はここに至るまでにどれだけの涙を流したのだろう。
佐藤のためだけに、これまでどれだけの涙を美月は流してきたのだろう。
『俺はお前にだけ本心を打ち明ける。俺は美月ちゃんが好きだ。女性として彼女を愛しく感じてる』
上野の本心を耳にしても佐藤の様子に驚きの気配はなかった。
『意外と落ち着いてるな。驚かないのか?』
『多少は驚いてますよ。けれどそうであっても不思議ではないですね。美月はとても魅力的な女ですから』
美月のすべてを知り尽くすかのような佐藤の物言いが上野の心に苦々しい感情を注ぐ。
『俺は今日初めて、お前に嫉妬した。彼女を笑顔にさせるのも泣かせるのもすべてお前だ。彼女に愛されたお前を羨ましいと思い、嫉妬した。今だって言い様のない感情で自己嫌悪してる』
『あなたもただの男なんですね。美月はあなたの気持ちを知っているんですか?』
『彼女には打ち明けていない。これから先も言うつもりもない。だが気付かれたかもしれないがな……』
先刻の医務室での抱擁は失態だったと悔やむ。次に美月の顔を見た時にどのように接したらいいのかわからず上野は悩んでいた。
『美月が気持ちに気付いたとしてもあなたを拒絶はしないと思います。これからも変わらず接してくれるはずですよ』
『そうやってお前があの子のことをわかった風に言うと益々腹が立つな』
『好きな女に関することには知ったかぶりもしたくなるものです』
互いに苦笑いの後についた深い溜息。
『でも一番の美月の理解者は木村くんですよ。俺も木村くんには嫉妬してもキリがないくらい嫉妬しています』
『だろうな。木村くんは大した男だよ。俺もお前も彼には敵わない。……まったく。なんて話をしているんだか』
中年の男二人が一回り以上も年下の女に心を掻き乱されている。そんな話を聞けばお前達は何をやっているんだと呆れる者もいるだろう。
それも仕方がない。恋にも愛にも年齢は関係がない。これが、恋なのだ。
早河が美月を病院に送る時間になった。美月は鎌倉警察署の玄関先まで見送りに訪れた上野を振り返る。
『ごめんね。本当は東京まで送ってあげたいけど俺はここを離れられなくて』
「上野さんさっきから謝ってばかりですよ?」
『えっ? ごめん……あ、また……』
上野を見て美月が笑う。悔しいが佐藤の言った通りだった。上野の気持ちに気付いていても美月は上野を慕っている。それでいい。
「佐藤さんのこと、よろしくお願いします」
涙の跡が残る目元で愛らしく微笑む美月の頭上では満ちていく白い月が気高く輝いていた。
この想いが彼女に届かなくても。
せめて彼女の幸せが永久に続きますように。
ただひとりの月影の女性よ
どうかどうか永久にあれ。
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