7-6

 佐藤の取り調べを部下に任せて上野は取調室を出た。刑事課のフロアには早河が残っている。


『美月ちゃんは?』

『医務室で寝ています。しばらく休ませた方がいいと思って』


複雑な心境は上野も早河も同じ。佐藤を逮捕しても心が晴れない要因は美月にあった。

佐藤が逮捕された瞬間の美月の泣き顔が頭から離れない。


『彼女の様子を見てくる』


 刑事課を出た上野は一階の医務室に向かった。エレベーターではなく階段を使ってわざと時間をかけて医務室までの経路を辿る。


 一番悲しませたくなくて、一番泣かせたくない女性が一番悲しむ姿を目の当たりにした。

美月に絶望を与えた人間は他ならぬ上野自身。

どんな顔をして会えばいい?

どう接していけばいい?


 答えの出ない自問自答を繰り返して医務室の前で呼吸を整える。付き添いの婦警と交代で医務室に入った上野は、広くも狭くもない部屋の一角に引かれたカーテンに目を留めた。

医務室は学校の保健室に似た雰囲気だ。治療道具の並ぶ棚の前を通って仕切りのカーテンの隙間から中を覗く。


 四方をカーテンに包まれた簡素なベッドで美月が眠っていた。上野は物音を立てないようにカーテンの内側に入り込み、ベッド脇の椅子に腰掛ける。


『ごめんね……』


声にならない小さな呟きは空気より重く沈んでゆく。


 刑事として犯罪者の逮捕は当然の職務。人生の四半世紀以上を警察官として過ごし、多くの犯罪者を逮捕してきた上野は今日ほど刑事である自分を呪ったことはない。


佐藤瞬は殺人犯だ。しかし彼を逮捕しないで済むのなら、佐藤と美月が手を取り合って歩む未来がもしあるのなら……それでも、上野の選択は変わらなかったかもしれない。

捜査に私情を挟まない。それが警察官の鉄則だからだ。


 美月が十代の頃から彼女の人生を見守ってきた。彼女の笑顔を見ていられたら幸せだった。

この気持ちの名前が“恋”なのだと、本当は随分前に気付いていた。12年前に恵子に指摘された時に本当は気付いていた。

気付いていても知らないフリを続けた。自分と美月のために。


 眠っていた美月が微かに動いて薄く目を開けた。虚ろな瞳で天井を見つめていた彼女は上野の気配に気付く。


「……上野さん……?」

『気分はどう?』


こんな時にありきたりな言葉しか言えない自分が我ながら情けない。


「少し……頭がぼうっとしてますけど……大丈夫です」

『朝までには斗真くんと一緒に東京に帰れるように手配するよ。もう少しここで休んでいて』


父親が娘を寝かしつけるように。彼は優しく美月の額に手を当てて撫でた。


「全部……夢ならいいのにって思ったの。佐藤さんと出会って佐藤さんを好きになったことも……彼が殺人を犯したことも夢ならいいのに……。でも夢じゃなかった」


 美月がとつとつと言葉を紡ぐ。赤い目元の端にまた涙が溜まっていた。


「だけど……佐藤さんを逮捕したのが上野さんで良かった。他の刑事さんに逮捕されるのは嫌だったの」


 美月は泣きながら微笑した。その微笑に言葉に詰まった上野の心が悲鳴をあげた。

彼女はいつだってそうだ。いつだって救ってくれる。

刑事としての自尊心も使命感も罪悪感も後悔も、今の一言で救われた。


「上野さん……? 泣いてるの?」


上野は手で顔を覆って伏せている。起き上がって彼の顔を覗き込む美月の肩に上野の手が伸びた。


『ごめん。……少しだけこうしていていいかな』


 美月を抱き締める上野の背中は震えていた。彼女は困惑しつつも上野の背中に手を添えてゆっくり、ゆっくり、彼の広い背中をさする。


 美月の首筋からは佐藤と同じ香りがした。海岸で美月達と別れたその後、美月と佐藤の逃避行の詳細を知る者はいない。

美月と佐藤がふたりだけの時間を過ごしていたと思うと、チクリと心に棘が刺さる。

嫉妬、という名前の棘だ。


美月は黙って上野の抱擁に身を預けている。抱き締める腕の力強さは普段の上野の穏やかさとは違っていた。


『驚かせてしまったね。ごめんごめん』


美月を手離した上野は平静を装っていても彼の目は赤く潤んでいた。


『帰りの用意ができたら呼びに来るよ。それまで寝ていていいからね』


 いつもの“優しい上野さん”の表情を作って彼は足早に美月の前から消える。残された美月はあの抱擁の意味に考えを巡らせていた。


はっきりとした確信は持てない。自惚れの勘違いかもしれない。

だけど抱擁の数秒間に込められた想いは美月に伝わっていた。


「上野さん……ごめんなさい」


気付いてはいけない秘めた気持ちに気付いてしまった美月の、精一杯の誠意だった。

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