6-5

 食後の紅茶を飲み終えた美月は部屋のバルコニーに出ていた。部屋では給仕のバルバトスが黙々と晩餐の片付けを行っている。


片付けを手伝おうとしたが素っ気なく断られてしまった。アフタヌーンティーの用意をしてくれたグレモリーとは少し打ち解けられたのに、どうにもバルバトスには敵意を向けられているようだ。


身に覚えのない敵意。生きていれば知らない間に人に恨まれていることもある。

真面目に生きていても、堕落していても、誰も傷付けずに生きていくのは不可能だ。


 バルコニーから見える景色は暗黒色の海。すぐ側の道を走る車のライトと頭上の白い月だけが明かりとして灯っていた。


潮の薫りと冬の空気が同時に流れる。

肌寒さは感じるが防寒は肩に巻いた厚手のショールで充分だった。このショールは貴嶋が貸してくれた物。

ショールからは貴嶋がつけているコロンの香りがする。心が落ち着く匂いだった。


 食後のティータイムを中座して以降、貴嶋は部屋に戻ってこない。彼はどこに行った?


(キングはまさか……)


一瞬よぎった胸騒ぎはどんどん膨らんでいく。吐く息は白くなって潮の香りを含む空気に拡散された。


夜の海は暗く深く、あの中に入れば二度と地上に上がれない恐怖を孕んでいる。

怖いのに惹き付けられる美しさ。怖いのにもっと知りたいと思う。一度知れば知らなかった頃には戻れない。

夜の海は貴嶋佑聖そのものに見えた。


 カーテンがなびく向こう側にゆらりと大きな影が立っている。影は音を消してバルコニーに佇む美月に忍び寄った。

気配を感じて振り向いた美月の目の前に銀色の刃先が飛んで来る。彼女は俊敏な動きで刃先から逃れた。


『チッ。トロいようで意外と反射神経いいんだな』


美月にナイフを向けたのはバルバトスだ。ナイフを避けた拍子で肩に羽織っていたショールが滑り落ちた。


『全部お前のせいだ……! お前さえいなくなればあの方はまた偉大な王に戻られるっ!』

「偉大な王? キングのこと?」


バルバトスの言っている意味がわからない。血走った目をした彼は完全に理性を失っている。話の通じる相手ではない。


『お前ごときが気安くあの方の名前を呼ぶな!』


 再び銀の刃が振り下ろされる。美月は男の攻撃を避けたが、勢い余ってバルコニーの柵に身を乗り出してしまった。

バルバトスはナイフを捨てて美月の首を両手で強く掴んだ。


『ちょうどいい。ここから突き落としてやる』


首を絞められて息ができない。柵に身を乗り出した身体は仰け反り、もがいた手は虚しく宙を切る。

五階から落ちれば命の保証はない。その前に首を絞められて殺されてしまう。


(苦しい……助けて……佐藤さん……)


 声も出せない。愛しいあの人の名前を心で叫ぶ美月の目に浮かぶ涙が頬を流れる。

新入社員時代に同期の男に監禁されて首を絞められたことがある。死期を感じたあの時の美月も貴嶋に受けた最大の難問の答えを探し求めていた。


 ――“この世に神はいると思う?”――


9年前に神はいないと語った貴嶋は今でも神を信じていないのかもしれない。神になろうとした男は誰よりも神を信じていなかった。


(キング。私は今でも信じてるよ……)


次第に遠退く意識。全身の機能が停止する瞬間だった。


『……うっ』


 男の呻き声と共に首の拘束が解かれる。圧迫から解放された美月は激しく咳き込んで崩れ落ちた。


『美月! しっかりしろっ!』


耳元で聞こえる声は心の中で名前を叫び続けていた彼のもの。美月が倒れ込んだ腕の中は彼女にとってこの上ない安心感に包まれていた。


「……佐藤さ……ん」

『大丈夫か?』


 抱き寄せられた胸元から顔を上げる。愛しい彼の顔が濡れた視界越しに見えた。佐藤が美月の身体を支えてバルコニーから退避する。


『待て!』


バルバトスの太ももにはフォークが刺さっていた。あのフォークは晩餐の時のカトラリーの一部だ。

引き抜いたフォークの先端に付着した血液が生々しく煌めいた。


 負傷した太ももを庇いながらバルバトスは床に捨てたナイフを持って逃げる二人を追う。首を絞められて体力を消耗していた美月は足がもつれて上手く歩けない。客室を横切って廊下に出ようとした二人を阻むのは部屋の外にいたもうひとりの男。


『バルバトス。お前は女を確保しろ』


部屋の前にいる大柄な男が指令を出す。男の手には銃が握られ、照準は佐藤に向いていた。


『OK。アモン』


 バルバトスとアモン、ソロモン72柱の悪魔二人が美月と佐藤を挟み撃ちにして詰め寄ってくる。


佐藤は懐から取り出した銃のセイフティを解除した。馴染みの武器商人は佐藤の好みをわかっているだけあり、銃は使い慣れているマカロフだ。

佐藤の銃を見た美月が息を呑む。


「佐藤さん……」

『心配するな。俺に任せろ』


 バルバトスとアモンが同時に動く。佐藤はバスルームに美月を隠し、美月を守るように浴室の扉の前に立った。

まずアモンの左腕目掛けて一発弾丸を放つ。アモンも佐藤に発砲するが動きは佐藤の方が速かった。アモンの撃った弾はドレッサーに当たって鏡が粉々に砕け散った。


 バスルームに隠れる美月は空の浴槽に身を屈めて男達の撃ち合いに震えた。鍵がかかる扉一枚隔てた先から聞こえる銃声、ガラスの割れる音、怒鳴り声、ぞっとする男達の殺気が恐ろしかった。


 佐藤に左腕を撃たれたアモンは歯を食い縛ってもう一発弾を撃つ。アモンの二発目を受け身をとってかわし、その弾は背後から佐藤を刺そうとしたバルバトスの右肩に命中した。

奇声をあげるバルバトスの手からナイフを払い落とし、さらにはアモンの太ももめがけて弾を撃ち込んだ。


血に染まる床にバルバトスとアモンが倒れる。銃撃戦が止んだ室内には荒い息遣いしか聞こえない。

まったく呼吸が乱れていないのは佐藤ひとりだけ。バルバトスとアモンの戦闘不能を確認した佐藤はセイフティをロックした銃を懐に戻した。


『美月、出て来ていいよ。おいで』


 佐藤がバスルームの扉を数回叩く。鍵が開いて美月が恐る恐る顔を覗かせた。

血溜まりの床に男達が転がる有り様はまさに戦場だった。美月はバルバトスとアモンを見ないようにして佐藤に抱きついた。


「佐藤さん怪我は……」

『平気だ。美月も怪我はない?』


佐藤は抱きつく美月の身体を軽々持ち上げる。彼女の全身に視線を巡らせる彼は悲しげに眉を下げていた。

美月は佐藤の首もとに両腕を回してきつくしがみついた。


「私も平気。佐藤さんが守ってくれたから……」


 美月を抱えて部屋を出る佐藤にアモンが侮蔑ぶべつの眼差しを送る。彼は苦々しく呟いた。


『裏切り者……』


佐藤に太ももを撃たれたアモンは息苦しそうに喘いだ。部屋を出る寸前に佐藤はアモンを見下ろす。


『お前達はキングの側にいてあの人の何を見てきた? 彼女を危険に晒すことをキングは望まない。お前達がやっていることこそキングへの裏切り行為だろう』


 バルバトスとアモン、双方に冷たく言い捨てて、佐藤は美月と共に部屋を出た。彼は美月を抱き抱えて廊下を進む。

二人の耳に銃声が二発届いた。銃声は今まで美月達がいた部屋の方向から聞こえた。


『……自決したか』

「自決ってあの人達は自分で……?」

『銃声は二回した。一方が相手を撃った後に自分を撃ったんだろう』


バルバトスとアモンは死を選んだ。銃を所持していたアモンが先にバルバトスを撃ち、最後に自分を撃ったと考えられる。


 死の選択が貴嶋への懺悔を意味するのか別の意味合いを持つのかは彼らにしかわからない。

〈親愛なる貴嶋佑聖にこの身を捧げます。キングの復活を我は望む〉――おそらくそういうことなのだろう。


 自殺する人間も最期の瞬間には自分がどうしてこんなことをしているのかわからずに、黄泉の国の入り口に手を伸ばしてしまうのか。

佐藤は婚約者を自殺で失った。彼女は強姦された記憶を背負いながら生きられなかったのだ。そんなものを背負って生きられない人間が大半かもしれない。

生きていても生き地獄だ。


 生き地獄があるのなら死して経験する地獄はあるのだろうか。

死者に地獄は存在しない?

死んで楽になれた人がいるのなら聞かせて欲しい。

死んで楽になれましたか? ……と。

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