6-2
透き通ったワイングラスに赤い液体が注がれる。血の色に似た赤ワインのグラスを貴嶋と美月は持ち上げた。
『乾杯』
二人はワイングラスの丸い腹の部分を軽く触れ合わせて乾杯する。ガラス同士が触れる繊細な音が響いた。
給仕を務めた男が一礼して部屋を去る。貴嶋は男をバルバトスと呼んでいた。
バルバトスは部屋にいる間もじっと美月を睨み付けていた。その視線は居心地の良いものではなく、はっきりとした敵意を感じた。
美月と貴嶋が過ごす部屋は続き間にダイニングテーブルがある。テーブルにはシルクのテーブルクロスが敷かれ、その上には豪勢な料理が並んでいた。
バルバトスの気配がなくなり、緊張していた神経も緩まる。美月はナイフとフォークを手にした。
「あの人、私のこと好きじゃないみたいだね。私何か気に障ることしたのかな……」
『ごめんね。彼も悪い子じゃないんだよ。人との関わり方がわからないだけなんだ』
貴嶋の態度はまるで息子の無礼を詫びる父親だ。こんな風に他人の不始末を謝罪する貴嶋を初めて見る。
9年前とは明らかに違う貴嶋の変わり様にこちらの調子が狂って仕方ない。
二人だけの最後の晩餐の意味もわからないまま、美月は食事を続けた。
『運命の赤い糸はなぜ赤い色をしていると思う?』
「赤い糸?」
彼の唐突に質問を繰り出す癖は昔から。変わったと思えば変わっていない。
どうしても読めない男だ。
『恋愛に関わる糸ならばもっとそれらしい色、例えば桃色でもいいとは思わないか? 先人達はなぜ運命の糸を赤い色だと定義したのだろう?』
「さぁ……考えたこともなかった」
運命の相手とは身体の一部が見えない糸で繋がっている。子どもの頃に刷り込まれたおとぎ話の一説を無条件に信じていた。
確かに運命の糸は赤い色ではなくてもいいと思える。貴嶋が例として挙げた桃色でもおかしくはない。
『赤い糸の言い伝えは元は中国から発せられた伝承だ。運命の者同士は足首を赤い糸で結ばれている。赤い糸を司るのは月下老人という結婚の神様なんだよ』
「結ばれているのは足首なの? 小指じゃなくて?」
『日本では足首から小指に変わったんだ。なぜ糸は赤色なのか、それは赤が血の色だからだと私は考えた。血液は人間の生命の色だ。運命の赤い糸は生命の糸、命と命の強い結び付き。生まれた時から赤い糸で繋がっているとはよく言ったものだよね』
赤が血の色だから……貴嶋が語るとより
『美月の赤い糸の相手は誰に繋がっている?』
貴嶋の何もかもを見透かした上でわざと相手を試す眼差しを直視できなかった。貴嶋の問いに返す答えを美月は持ち合わせていない。
『もっと分かりやすい言い方をしよう。木村隼人か佐藤瞬か。どちらが君の赤い糸の相手かな?』
木村隼人か佐藤瞬、どちらが運命の赤い糸の相手なのか。隼人と佐藤と出会って今年の夏で12年、その答えを出せずに彼女は生きてきた。
答えに窮する美月に貴嶋は柔らかく微笑みかける。
『いつかまた君に会うことができたら同じ質問をするよ。その時に答えを聞かせて欲しい』
いつか、がいつを示しているのか貴嶋は明言を避けた。やはり今回の貴嶋はどこかおかしい。
貴嶋であって貴嶋ではない。どう形容するのが適切かわからないが、美月が知る9年前の貴嶋佑聖とは違っている。
「あなたは何を考えているの?」
『何を考えているように見える?』
「キングが何を考えているのかはわからない。でも9年前と違う。私もあなたもあの頃とは違う。何か変なの」
『思っていることを話してごらん。昼間は私の話を聞いてくれたからね。今度は私が美月の話を聞く番だ』
品の良い紳士は顔色を変えずに水の入るグラスを手に取り、唇を湿らせた。
「斗真と真愛ちゃん……子ども達の誘拐を計画したのはあなたじゃないと思う。今のあなたは子どもを犯罪に巻き込むようなことしない」
『子ども達の誘拐の犯人が私じゃないなら誰が犯人かな?』
「わからない。私は刑事じゃないし……でも他に犯人がいるのよね」
病院のランドリーで遭遇した“あの人”の顔が浮かぶ。美月はあの人の名前を知っていた。
『美月は私が子どもを犯罪に巻き込むことはしないと言ったね。どうしてそう思う?』
「今のキングは穏やかだから。気質や性格じゃなくて……“静か”なの。私や早河さんの子どもを殺す気なんてキングにはない。隼人を殺そうとしたのもキングではない別の人が計画したことじゃないの?」
今日は明け方から晩餐の時間まで貴嶋とずっと二人で過ごしていた。この数時間で感じていた矛盾の糸がようやくほどけていく。
今の貴嶋と今回の事件の犯罪傾向は合わない。目の前の穏やかな紳士が子どもを危険な目に合わせ、隼人の殺害を目論むとは思えなかった。
「前のキングだったらおかしくなかったことが今回はおかしく思える。なんでって言われると上手く言えないけど……」
貴嶋は何も語らない。美月の意見を肯定も否定もせずに穏やかに笑うだけだ。
混沌とした気持ちを抱えた晩餐も食後のティータイムを迎えた。美月の紅茶と貴嶋のコーヒーを部屋に運んできたのはバルバトスではなく、日本語が片言な中国人の女だった。彼女の名前はグレモリーと言うらしい。
バルバトスやグレモリー、聞き慣れない奇妙な名前だった。
ティータイムの談笑の最中、腕時計を見た貴嶋は椅子から腰を上げる。彼のコーヒーカップにはまだ半分コーヒーが残っていた。
『すまない。少し失礼するよ。美月はそのままゆっくりしていてね』
美月を部屋に残して貴嶋は廊下に出た。彼は軽い足取りで階段を降りる。美月といた五階から一気に一階に降りた。
ホテルの間取り図を頭に描いて厨房を横切り、狭い通路に出た。通路の奥には銀色の鉄扉が仁王立ちしている。
鉄扉を押し開けると地下に続く階段が伸びていた。この先はボイラー室だ。
カンカン、と甲高い靴音を鳴らして貴嶋は地下に降り立った。熱気のこもるボイラー室は大きな管が縦横無尽に張り巡らされている。
朝にこの辺りは一通り見て回った。その時にいくつかの処理は終えている。
あとひとつ、やり残した物の処理を終えれば完了だ。10分もあれば充分だろう。
ボイラー室の片隅に置かれた工具箱を持って巨大なモーターの裏側に回り込んだ。モーターの後ろに取り付けられた黒色の四角いケース上部の液晶パネルにはデジタル時計のような数字表示がある。
表示は00:00:30、hourとminuteはなくsecondだけが30と示されて止まっている。設定時間になれば30秒からカウントが刻まれる仕組みだ。
『30秒は短いな。せめて1分は猶予がないとカウントダウンの面白みがない』
ここで苦言を呈してもこれを作った本人には届かない。
ボイラー室の湿度は高い。貴嶋は額に滲む汗を拭い、慎重に上蓋を外した。
蓋を外されたケースの中には赤いコードが何本も連なっている。彼は赤色のコードの多さに苦笑いした。
これまでで一番のトラップの多さ。これが本命だ。
この種類の爆弾解体の方法は熟知している。元々は貴嶋がこれを作った人間に教えてやった方式だ。少しオリジナルの手が加えられていても基本は変わらない。
躊躇なく赤色のコードを工具のハサミで切断した。次も、また次も現れる赤のコードは貴嶋の手で断ち切られる。
『美月は誰にも殺させないよ。……誰にもね』
ケース内部には繋がりを失った赤色の屍が並んでいた。
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