第六章 審判

6-1

 太陽が沈み今日もまた空が闇に染まる。仕事を終えた松田宏文が隼人の病室を訪れた。


鎌倉市内で斗真が無事保護されたと連絡を受け、ひとまず安堵する隼人と松田だったが美月の行方は掴めないまま。不安と心配が募る状況で交わす松田との談笑が隼人の気を紛らわせてくれた。


『ヒロは美月のこと、まだ好きなのか?』


 さっきまで笑っていた隼人の顔からは笑みが消えていた。松田は雑誌のページを閉じてベッドサイドのテーブルに置く。

いつかは隼人からこのような質問を受けることになるとどこかで予期していた。特別、動揺や驚きの感情はない。

松田は冷静に隼人の真意を探った。


『それはLikeとしてかLoveとしてか、どちらを聞いてる?』

『もちろんLoveの方に決まってるだろ』


聞かなくてもわかっていることをあえてワンクッション置いて尋ねたのは覚悟までの時間稼ぎ。


『一度愛した女にはいつまでもLike以上の感情はあるものじゃないか? 俺は少なくともLike以下にはならない』

『それが答え?』

『そうだね』


 沈黙の訪れ。気まずくはない。けれど心地よくもない緊張感。

友人としてではなく、同じ女を好きになった男として二人は心を向き合わせていた。


『俺から美月を奪いたいって思ったことは?』

『大学の時は本気で奪ってやろうかと思ってた。隼人くんのことで泣く彼女を見ていられなかったからね』

『今は美月を自分の女にしたいと思わないのか?』

『全然。美月が幸せならそれでいい。隼人くんと結婚して母親になった美月は誰の目から見ても幸せに映ってると思う』

『本当にそうならいいんだけどな……』


誰かが廊下を通るスリッパの音、呼び出しのアナウンス、扉の開閉の音、彼らを取り巻く物音はすべて病室の外の音。

この病室内はとても静かだった。


『つまりこれは俺に美月を譲ってくれるって話?』

『バーカ。誰が譲るか』

『じゃあなんでそんな弱気になってんの?』


 松田の追及に隼人は押し黙る。彼は席を立ってコートを羽織った。


『あんまり弱気なことばかり言ってると今度こそ本気で奪いに行くぞ。美月と子ども二人養うくらい俺にもできるからな』


普段は温厚な松田がここまで挑発的な態度になるのは珍しい。彼は長い溜息をついた。


『そういうの本当に困る。隼人くんが弱気になられちゃ、俺が困るんだよ。俺は美月の相手が隼人くんだから諦める決心をした。この意味、わかる?』

『ヒロ……』

『美月が隼人くん以外の男を結婚相手に選んだとしたら俺は彼女の幸せを祝福できなかったかもしれない。俺は隼人くんのことを人として尊敬してるし、大事な友達だと思ってる。だから……』


それ以上の言葉が続かない。言わなくても隼人には松田の気持ちは伝わっていた。


『ごめん。お前にそこまで言わせて……』

『謝らなくていい。俺も隼人くんの立場だったら同じように不安になってたよ。……また来る。次は蓮見はすみシリーズでも持ってくるよ。入院中の暇潰しにはミステリーがちょうどいいだろ?』

『ああ。ありがとな』


 最後は互いに笑って別れを告げる。次に見舞いに来る時は所蔵している長編ミステリー小説をしこたま持参してやろうと思い、松田は隼人の病室を後にした。


(好きな女の旦那が落ち込んでる時に励ますようなことしてる俺はお人好しが過ぎるな)


 松田は12年前の美月と佐藤の悲恋の現場には居合わせていない。当然、佐藤とは面識もない。

だが美月や隼人、従兄の渡辺亮を通して12年前に何があったのか。美月と佐藤と隼人のトライアングルの結末も知っている。


本当は自分が動きたくて仕方ないくせに、自由に動けない身体に隼人は焦燥を感じていた。

美月と佐藤が接触する。表面的には気丈に振る舞っていても不安なのだろう。

美月が佐藤のもとに行ってしまうのではないか、美月にとっての幸せとは佐藤と共に生きることなのではと隼人は思い悩んでいる。


(そんなことにはならないだろうけど当事者にしてみれば不安だよな)


 考え事をして歩いていた松田は注意力が鈍っていた。廊下の角を曲がった先で向こうから来た相手に気付かずにぶつかってしまった。

小柄な女性が声をあげてよろめいた。松田は咄嗟に片手を差し出して彼女を抱き留める。


『すみませんっ。大丈夫ですか?』

「はい……」


 松田とぶつかった相手は看護師だった。看護師は足立静香のネームプレートをつけている。


『申し訳ありません。ボーッとして歩いていたもので……』

「こちらこそ、私もよそ見をしていて……」


二人は頭を下げ合い、苦笑いして顔を見合わせた。


「お見舞いですか?」

『あ、ええ。あっちの病室に入院している木村隼人の見舞いに』

「木村さんの……! もしかして警察の方ですか? 奥さんも事件に巻き込まれていると伺いましたが」


 静香は声を潜めた。603号室に入院中の木村隼人は事件に巻き込まれて意識不明で運ばれた患者だ。

大学病院には様々なバックグラウンドを持つ患者が入院しているが、警察が出入りするケースは珍しい。加えて容姿端麗な隼人は看護師の間で話題の的になっていた。


『いえ、木村の友人です。木村の奥さんは僕の大学の後輩なんですよ』

「ご友人の方でしたか! 警察の方もよくお見えになるのでてっきり……すみません」


さっきから自分達は謝ってばかりいるのに少しも嫌な気分にならない。むしろ静香との不思議な立ち話が松田は楽しかった。


『いえいえ。まぁ……彼女も無事に戻ってくるといいんですが』

「大丈夫ですか?」

『木村はかなり参っている様子でしたね』

「木村さんも心配ですが……あなたの方です。失礼ながらお疲れのように見えます。栄養のある食事と睡眠をしっかり摂ってくださいね。人間の体は頑丈に見えて繊細ですから」


 意外な返しに松田は驚いた。静香の指摘は的中していた。

ここのところ仕事が多忙で食事もコンビニの物で済ませて睡眠時間もわずかだった。さらに隼人達の事件の知らせに心労も募り、身体に疲れが溜まっていた。


『顔色だけでわかるなんてさすが看護師さんだ。驚きました』

「余計なお世話だったでしょうか……? すみません」


また静香が謝った。色々と気にしすぎる性格なのだろう。


『嬉しかったですよ。今日は栄養あるもの食べて早く寝ます』

「はい。木村さんのことはお任せください」


 笑顔で会釈をして二人は廊下で別れた。エレベーターホールに向かう松田の背中を静香は見つめる。


「あっ……名前……。聞いておけばよかったかな……」


 静香が後悔の呟きをした頃、松田はエレベーターのボタンを押した。彼は先ほどの看護師がつけていたネームプレートの名前を反芻する。

足立静香。気遣いのできる穏やかな雰囲気の看護師だった。

美月と静香、二人の女性の存在が松田の中で揺れ動いていた。

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