5-11
冷たい潮風が頬に触れ、吐き出した紫煙が空に流れる。連続して聞こえる波の音が高ぶる神経を少しだけ和らげてくれた。
『今さら止めたところでお前の気が変わるとは思えんが、本気で貴嶋のアジトに乗り込むつもりか?』
しわがれた声の男が防波堤に腰掛けて佐藤瞬の背中を見ている。ニット帽を被った浅黒い肌の男だ。
『ええ。本気ですよ』
佐藤は振り向かずに答えた。冬の海岸沿いは予想以上に寒く、彼の片手はコートのポケットに包まれている。
佐藤は生まれ故郷の海を思い出した。真冬の日本海、雪の日の海は荒々しく波打っていた。
『惚れた女のためなら命も惜しくないか。お前のそういう、いつまでもガキ臭い性格が俺は嫌いじゃねぇよ』
男は傍らの灰色のケースを開く。ケースに収まる拳銃が男の老いた手で取り出された。
佐藤が振り返ると、男の持つ銃口がこちらに向いた。
『相変わらずイタズラ好きですね』
『相変わらず憎たらしいくらいに動じないな。からかいがいがなくてつまらん』
舌打ちして男は銃を下ろす。佐藤の側に控える部下の日浦が現金が入る封筒を男に渡した。
現金と引き換えに銃が入るケースを日浦が受け取る。
男は封筒の中の札束を数えて口笛を鳴らした。
『指定した金額より多いぞ』
『これまで世話になったことへの少しばかりの気持ちです。それで良い酒でも飲んでせいぜい長生きしてください』
『まるで今生の別れの台詞だな』
吹きすさぶ潮風に身をすくめて、男は現金が入る封筒をダウンジャケットのポケットに押し込んだ。
『そうなるかもしれませんから』
波の音に紛れて呟いた佐藤の独り言は男と日浦に聞こえていた。男は溜息をついて腰を上げる。
『お前との仕事もこれが最後か』
『お世話になりました』
『よせよ。お前に頭なんか下げられたら不気味で明日には雪どころの騒ぎじゃなくなる』
一礼する佐藤を見下ろす男の眼差しは暖かい。父親が息子を見守る眼差しに似ている。
『死ぬんじゃねぇぞ』
最後に一言告げて男は立ち去った。
男とは二度と会うこともない。けれど男の狭い自宅で明け方まで酌み交わした酒の味を佐藤は忘れない。
父親を亡くしている佐藤にとって男は父親のような人だった。
『日浦。お前の仕事もここまでだ。これまでよく俺の下で働いてくれたな』
『ボス、それは……』
『お前の今後については
夏木グループ会長の
夏木十蔵とは佐藤が犯罪組織カオス所属の時代から取引があり、カオス壊滅後も佐藤と夏木のビジネスパートナー関係は続いていた。
『自分は最後までボスについていきます。ボスに拾われたあの日から、何があろうともボスのために命を懸ける覚悟でやってきました。ここにきてそんな……』
佐藤は日浦の抗議の声も意に返さない様子で彼から銃の入るケースを奪い取った。
『俺のために命懸けられちゃ困るんだよ。お前が俺のために死んじまったら嫁さんと子どもはどうなる? 息子はまだ三つだろ。お前の子どもを父親のいない子どもにしたくはない。これからは嫁さんと子どものために生きろ』
父親のいない寂しさを知る佐藤だから言える。妻と息子の顔が脳裏に浮かんだ日浦は抗議の言葉をぐっと堪えた。
『お前を死なせたくないんだ。わかってくれ』
『ボス……』
『夏木会長はお前の能力を高く評価している。悪いようにはしないはずだ。俺から離れることが最後の仕事だと思え』
佐藤は日浦に背を向けた。これ以上、日浦と話すことはない。辛気臭い別れの言葉も上司らしく諭す言葉も佐藤は言わない。
『……ご無事を祈っています。どうか、ご自分の命を粗末になさらないように。仕える人間が変わっても俺の恩人はいつまでもボスです。それは変わりません』
日浦が一礼しても佐藤は振り返らない。防波堤の上に足音が響き、やがて車のエンジンの音が聞こえた。
またひとり、佐藤のもとから人が去る。これでいい。身軽になればなるほど動きやすい。
二本目の煙草から流れた白い煙がゆらゆらと冬の空気に舞って消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます