5-10
世界の果てを連想させる静寂の中で波の音が哀しげな旋律を奏でる。
それは封印の旋律
それは祈りの旋律
奏でる音色は誰に捧げる
己の魂を旋律に宿して天高く舞い上がれ
これは愛と言う名の、レクイエム……
ヴァイオリンの旋律が優しさと物悲しさの余韻を残して終わる。儚い調べに空気が震えていた。
「凄い……」
ソファーに腰掛ける美月は拍手をするのも忘れて放心した表情でヴァイオリンを持つ貴嶋を見つめる。貴嶋は構えていたヴァイオリンを下ろして一礼した。
「今の曲、どこかで聴いたことがある」
『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲だよ。有名だから耳にしたこともあるだろうね。莉央が好きだった曲だ』
年代物と思われるヴァイオリンは素人の美月の目から見ても高級品だとわかる。貴嶋はヴァイオリンをケースに収めた。
『ヴァイオリンのメロディは悲劇的で破滅的だ。だから好きだと莉央は言っていたよ』
部屋のテーブルにはアフタヌーンティーの用意がされている。
アフタヌーンティーのテーブルセッティングをしたのは日本語が片言な中国系の女と日本人の若い男だった。
男の方は動きが左腕を庇っているように見えた。左腕に怪我をしているのかもしれない。
病院から美月を連れ去った“あの人”の姿はここでは見掛けなかった。
アフタヌーンティーの間、貴嶋は亡き恋人の莉央との思い出話を語ってくれた。
貴嶋と莉央が数年を過ごしたアメリカのカリフォルニア州にあるパサデナという街を美月は知らなかった。世界には自分が知らない街が沢山ある。
貴嶋が語るパサデナの街並みはとても魅力的でいつか訪れてみたいと思えた。
「莉央さんの前でもキングはヴァイオリンを演奏したの?」
『何度かあるよ。莉央にもヴァイオリンを弾かせてみたことがあるんだ。けれど彼女は演奏者よりも聴き手が性に合っていたらしくてね。美月はケーキはもう食べないのかい?』
美月の隣に腰を降ろした貴嶋はティーポットの紅茶をカップに注いだ。ガラス製の三段ケーキスタンドには色とりどりのプチケーキが並んでいる。
「じゃあその……二段目の苺が乗ってる……」
『これかな? 美月は苺のケーキが好きだね』
彼は苺のプチケーキを盛った皿を美月の前に置いた。甘いケーキの香りに包まれた優雅なお茶会の雰囲気に酔いしれてしまいそうになるが、アフタヌーンティーを共に過ごす相手が逃亡中の脱獄犯であることはもちろん忘れてはいない。
苺のプチケーキにフォークを入れて口に運ぶ。甘酸っぱい味わいのケーキを咀嚼して彼女は部屋を見回した。
木目調の床にグリーンとベージュを基調としたインテリアが広い部屋に使いやすく配置してある。白い枠のついた大きな窓の向こうはバルコニーになっていて青い海が一望できた。
ここはリゾートホテルのようだ。窓から見える海岸がどこの地域の海岸かはここから見える範囲では判断がつかない。
(9年前と同じようにここもホテルの部屋だけど……)
9年前に赤坂のホテルに軟禁された時とは状況がずいぶん違った。まず鍵だ。
9年前は美月がいた部屋は内側からは鍵が開けられないシステムになっていた。彼女がどれだけ鍵の解錠に奮闘しても内側からは鍵が開かず、美月は正真正銘閉じ込められた。
今回は部屋の鍵は内側からでもすんなり開いた。あまりにも簡単に部屋の外に出られて拍子抜けしたほどだ。
逃げ出そうと思えば逃げられる環境にいるのに美月は一度も逃げ出そうとしなかった。
9年前との最大の相違は美月の心だ。前は貴嶋から逃れようと必死だった。
今は逃げられるのに彼女は逃げない。何故?
誘拐された斗真のこと、母親がいなくて不安がっているであろう美夢のこと、隼人のこと、佐藤のこと、様々な想いが交差する心にふとした瞬間に隣にいる犯罪者が入り込んでくる。
美月に莉央との昔話を語り聞かせる貴嶋は真に莉央を愛していた。彼女が亡き今も彼は莉央を愛している。
――“愛さなくていいから一緒にいて欲しい”――
貴嶋の最後のワガママに付き合ってあげたい。そんな風に思う自分の心がおかしいと感じた。
『おいで』
腕を引かれた美月は横向きに貴嶋の膝の上に座らされた。その体勢に恥ずかしがって頬を赤くする美月を貴嶋は面白がって眺めている。
今の美月の服装は赤色のニットにモノトーンのグレンチェックのスカートを合わせていた。上品な膝丈のスカートは貴嶋の膝の上で裾がふんわりと広がっている。
ここで夜明けを迎えた後、シャワーを浴びて9年前と同じく用意されていた服に袖を通した。
貴嶋にドライヤーを当てて乾かしてもらった髪からは家で使っているシャンプーとは違う香りがする。彼は美月のサラサラの髪に指を入れた。
『こんなことで照れるなんて君はいつまでも初々しいな。私がドライヤーをしてあげている時も恥ずかしがっていたね』
「キングとこういうことするから恥ずかしいの」
『可愛いね。君を手離せない男達の気持ちがよくわかるよ。私もそのひとりだからね』
貴嶋が手を伸ばしてケーキにデコレーションされた大きな苺を掴み、苺を美月の口に入れた。美月が半分かじった苺の半分を口に含んだ彼はそのまま美月にキスをする。
官能的な音を鳴らして繰り返される唇の接触。
犯罪組織カオスのキング、殺人犯、死刑囚、脱獄犯。そのどれにも当てはまらない貴嶋佑聖と美月はキスをしていた。
美月と貴嶋の口内で苺は溶け合って交ざり合って、貴嶋は苺の味がする美月の唇を舐めとった。美月の唇は赤く紅く、艶やかに染まっている。
『私が言うのもなんだが、これは不貞行為ではなくスキンシップだ。だから美月は罪悪感を持たなくてもいいんだよ。私とこうしていても君は旦那と佐藤のことを考えているだろう?』
この男はなんでもお見通しだ。貴嶋に隠し事は通用しない。
「変なの。キングでも夫婦仲の心配してくれるんだね。罪悪感持つなって言うのは無理だよ」
『君が悪者になるのが嫌なだけだよ。悪いのはすべて私だ。いくらでも私に責任をなすりつければいい。君が可愛くてキスを我慢できないのだからね』
貴嶋は笑って今度は美月の手の甲にキスをした。
ここまで恋人同然の行為をしていても貴嶋は美月に身体の繋がりを求めないのだから、まったく男と女はわからないものだ。
これが本物の恋人の莉央ならば貴嶋も性欲の片鱗を見せるのだろう。
貴嶋のアプローチには愛してもない男から性欲をぶつけられるような気持ちの悪さは感じない。
貴嶋と美月を結ぶものは、性欲とは違う何か。
恋に似たもの。愛に似たもの。
『すべてのものはいつか滅びる。どんなに高く築き上げた城も一瞬の揺らぎで崩れ去って消える。永遠などないのだよ。進化を極めればあとは衰退を待つだけだ』
「衰退だなんてキングらしくない……」
『綺麗な花もいつかは朽ちる。それだけだよ』
彼らしくない弱々しい微笑みが美月の心をざわめかせる。彼女は貴嶋の首筋に両腕を回して抱きついた。
少しずつ日没が近付き空が暖色に着色されていく世界の下で波がさざめいていた。
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