2-5

 小柳が通う都内の大学を張り込んでいる部下からも小柳は今日もまだ登校していないと報告があった。部下との電話を終えた直後、上野のスマホに着信が入る。


 木村隼人――着信画面に表示された名前を見て上野は眉をひそめた。12年前に上野が関わった静岡連続殺人事件を通じて知り合った隼人とは父と息子ほども年齢は離れているが、彼の妻の美月共々、年齢を越えた友人関係を築いてきた。


平日のこんな時間に隼人から連絡があるのは珍しい。隼人は大手企業の勤め人、昼休みにしては早い今の時間帯は仕事の最中だ。

嫌な胸騒ぎを感じて上野は通話に応答した。


{お忙しいのにすみません}

『構わないよ。何かあったかい?』


隼人の声色には普段の覇気がなかった。


{上野さんにずっと黙っていたことがあります。俺も美月も……できることならこのまま何もなく時が過ぎてくれればいいと思っていましたが、そんな考えは甘かったのかもしれません}


 慎重に言葉を選ぶ隼人の重苦しい呟きが上野の嫌な予感を膨らませる。彼は運転席の杉浦に会話を聞かれないために車を降りた。

助手席の扉に背を預けてスマホを耳に当てる。


{上野さん。……佐藤は生きています。あいつは死んでいません}

『佐藤って……あの佐藤瞬が? 間違いないのか?』


 刑事にとって逮捕直前の被疑者の死亡がどれほどの屈辱か。12年前に手錠をかけられずにいた佐藤瞬の最期の意味深な微笑みは今でも脳裏に焼き付いている。


{間違いありません。一昨年の……キングが脱獄した日に佐藤は美月に会いに来ています。俺は佐藤の姿を見ていないので美月の証言だけですが……}


美月は佐藤と愛し合っていた。佐藤の姿を目撃したのが美月だけだとしても、死んだと思われている佐藤の生存を主張するメリットは美月にない。

佐藤の生存は偽りではなく本当のことだろう。


『……そうか。あいつが生きていたか』


12年前に取り逃がし、被疑者死亡で幕を閉じた殺人犯が生きていた。突然の吉報に困惑と抑えきれない気持ちの高ぶりで武者震いが止まらない。


{2年前に俺は佐藤の生存を美月から聞いていました。本来ならすぐに警察に通報するべきでした。でも美月の気持ちを考えると警察に知らせる気にはなれなかった。上野さんにも黙っておこうと俺達で決めたんです。申し訳ありません}

『謝らなくていい。君達の気持ちを考えれば無理もないことだよ』


 隼人にも美月にも苦渋の決断だったはず。上野は隼人も美月も責めない。

事情を知らない警察関係者が耳にすれば激怒するかもしれない。警察の中で隼人と美月を罪に問う動きがあれば、上野は全力で隼人と美月を庇うつもりでいた。

むしろ彼らは佐藤の生存の情報提供をしてくれた善良な民間人だ。


『しかし佐藤の生存を警察に黙っていられない事態が起きた……そういうことだね?』

{ええ。さっき美月から連絡があって。佐藤が今朝会いに来たようです。佐藤はキングが動き始めてるから用心しろと警告してきたらしいです。キングの狙いは美月だと……}


 上野の視線は都営住宅に向けられている。車内の杉浦警部補は上野の様子を気にしつつ、双眼鏡越しに睨みを利かせた。


『貴嶋の狙いが美月ちゃんかもしれないとはこちらも薄々察してはいたよ。奴が美月ちゃんに手出しする前に早急に対処する。美月ちゃんは家にいる?』

{はい。とにかく今日は家から出るなと言ってあります}

『わかった。すぐに君の家に部下を向かわせる』


電話越しにホッとした相手の息遣いが聞こえる。


{ありがとうございます。それと佐藤はカオスを解任されたと言っていたようです。真偽はわかりませんが……}

『佐藤のことも美月ちゃんに詳しく聞いてみる。難しい決断をして連絡をくれてありがとう』


 隼人との通話を終えた上野はそのまま部下の小山真紀の携帯番号に通話を繋げた。


        *


 隼人はスマホを握り締めて立ち尽くす。肩を落とす彼は大きな溜息をついた。

本来ならば佐藤が現れた2年前にこうするべきだった。犯罪者の生存を知りながらも警察に隠していた。

どんな叱責の言葉も刑罰も受ける気でいたが、上野から隼人と美月を責める言葉は一言もなかった。


 己の役目を終えた安堵と隠していた秘密を明かした罪悪感にも似た感情が入り交じり、例えようのない後味の悪さが心に残る。


(どうして美月なんだ……)


佐藤にも貴嶋にもぶつけたい隼人の正直な想い。佐藤はまだ納得できる。

何故、犯罪界の帝王が美月に興味を持つのか誰もが疑問に思っていた。


 これで良かったのか……これが最善の策だと何度言い聞かせても、家に帰った時に待つ美月の悲しい顔を想像すると隼人の口からまた溜息が漏れた。


 疲れた顔でうつむく隼人を廊下の曲がり角から坂下菜々子が見ている。

隼人が席を外した後に会議の議論は熱を増し、意見が真っ二つに分かれて両者は譲らない。この場を収められるのはリーダーの隼人だけとなり、副主任に命じられて菜々子が隼人を捜しに行かされた。


廊下に立つ隼人を見つけた時、彼は誰かと電話中だった。声を圧し殺して深刻な顔で電話をしている隼人はとてもじゃないが話しかけられる雰囲気ではない。


 菜々子はしばらく曲がり角に留まって隼人の様子を窺っていた。立ち聞きするつもりはなくても漏れ聞こえてくる隼人の言葉の端々にいくつか聞きなれない単語があった。


(佐藤って誰? カオスって何? キングって何? ……脱獄?)


隼人が見つからなかった場合にこれで電話をかけようと持参していた自分のスマートフォンの検索画面に〈カオス、キング、脱獄〉と打ち込んで検索マークをタップした。


検索結果がスマホにずらりと表示された。ほとんどがニュース記事だ。

ニュースの題名には〈犯罪組織カオスのキング脱獄〉〈ICPO国際指名手配〉……菜々子の想像をはるかに越える不穏な見出しばかりだった。


(そういえば何年か前にこんな名前の犯罪組織が捕まったってニュースでやってた気がする。主任が言っていたのってこのことと関係あるの?)


隼人は通話中に何度も妻の名を口にしていた。電話相手は妻の美月ではなさそうだが、美月に関係する深刻な内容だと隼人の口調から察する。


(主任に何があったんだろう)


 通話を終えても隼人はその場を動かずに溜息を繰り返して塞ぎ込んでいる。自信に満ち溢れた普段の隼人とは別人だ。


 肩を落としていた隼人がこちらに足を向けた。菜々子は慌てて曲がり角を飛び出して隼人の前に出る。


「あ、あのっ……主任!」

『……坂下さん。どうした?』


菜々子の出現に隼人は表情を緩めた。彼女はたった今ここに到着した風を装って身ぶり手振りで状況を説明する。


「皆さんの意見が割れてしまって主任がいないとまとまらなくて……それで私が主任を捜しに……」

『ああ、ありがとう。ごめんね。仕事にやる気があるのは結構なんだけど、うちの奴らは人一倍我が強いのが多くて困るよ』


 軽く笑って彼は菜々子の横を通り過ぎた。菜々子も隼人を追いかけて経営戦略部のフロアに戻る。


(当然なんだけど私の知らない木村主任がいるんだよね。奥様のことも……)


頭にはまだ先ほどの隼人の言葉が回っていた。カオス、キング、脱獄、これらが意味するものとは?

会議を続けていても皆の前で見せる隼人の表情が菜々子にだけはひきつっているように見えた。

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