2-6
鈴木比奈は目黒駅の改札を抜けて外に出た。親友の木村美月の自宅はここから徒歩数分の場所にある。
キャビンアテンダントの職に就く比奈は仕事先で訪れたイギリスの土産袋を提げていた。
イギリスと言えば美月が好きな名探偵シャーロックホームズ。
今日はホームズ関連のイギリス土産を美月に渡して、ついでに美月と美夢を連れてランチに出掛ける予定だ。
(約束の時間より早く着きすぎちゃうな。美月に連絡しておこう)
道の片隅で立ち止まり、スマートフォンを取り出してチャットアプリから美月にメッセージを送った。冷たい風が頬に当たって彼女は身を竦める。
再び歩き出した比奈は黒いロングコートの男とすれ違った。長身でサングラスをかけた男だ。
男は早足で交差点を横切り人の波に消えた。
(今の人……冬にサングラスかけてるのも日本じゃ珍しい。もしかして裏っぽい仕事の人?)
海外ではファッション目的だけではなく目を守る目的でサングラスを愛用する人間は多い。しかし日本で冬にサングラスをかけている人間は芸能人かヤクザ関係くらいなものだろう。
比奈は父親が警視庁の組織犯罪対策部の刑事であることから、父に裏社会の人間の見分け方や雰囲気を言い聞かされている。
今の男は父が言う〈ヤクザの匂い〉を放つ男だった。
(ああいう危ない雰囲気の人には関わらない、関わらない)
木村夫妻の自宅があるマンションに到着した頃にはサングラスの男は比奈の記憶の彼方へ消えていた。
エントランスのオートロックの前で美月の部屋番号の呼び出しボタンを押す。すぐに応答はなく、スマホを見ても比奈が送ったメッセージへの返信はなかった。
「えー? 美月出ないなぁ」
もしかしたら娘を寝かしつけながら一緒に寝てしまった可能性もある。
もう一度呼び鈴を鳴らすべきか美月のスマホに連絡するべきか思案しているところに、細身の身体にパンツスーツを着こなした女性がエントランスに入ってきた。
どこかで見た女性だ。確か、警察官である父親の関係で……
「比奈ちゃん?」
向こうも比奈を知っていた。パンツスーツの彼女は懐から比奈の父親と同じ、桜田門の身分証明書を掲げた。
「久しぶりね。捜査一課の小山です」
「お久しぶりです! 父がお世話になっております」
どこかで見た顔だと思えばやはり、父と同じ警視庁刑事の小山真紀だ。
「石川さんにお世話になってるのは私の方よ。美月ちゃんに会いに来たの?」
「美月とランチの約束をしているんです。でも呼び鈴押しても出なくて……。小山さんはどうしてここに?」
「私も美月ちゃんに用があるの。比奈ちゃん、悪いけどもう一度呼び鈴押してもらえる? それでもダメなら美月ちゃんに電話してくれるかな」
「わかりました。あの……警察が美月に用があるってただ事じゃないですよね?」
比奈は呼び鈴を押す指を寸止めした。これまでの美月との長い付き合いで比奈が知る限り、警察が美月を訪ねる理由は犯罪組織カオス絡みしかない。
真紀は比奈への説明を躊躇した。通常は民間人に捜査情報は漏らせない。
しかし比奈は石川警視正の娘、そして美月の親友だ。佐藤の件で話を聞くにしても友人の比奈が側にいてくれる方が美月の精神的な負担も軽減される。
周囲に人の気配がないのを確認して真紀は声を潜めた。
「佐藤瞬が生きていたの」
「……え? 美月の元カレのあの佐藤さんが?」
「詳しい話は中に入ってから。今は美月ちゃんに家に入れてもらわないとね」
「そう……ですね」
呼吸を整えて比奈は再び美月の部屋番号の呼び出しボタンを押した。今度は数秒で応答があった。
{……はい。……比奈?}
「うん、私。それと、警視庁の小山さんも一緒だよ」
比奈は一歩下がって真紀が部屋のインターフォンのテレビモニターに映り込むようにした。真紀は通話口に向けて優しく語りかける。
「美月ちゃん。上野警視に連絡をもらってこちらに来ました。比奈ちゃんと一緒にお宅にお邪魔してもいいかな?」
{……はい。今開けます}
部屋とこちら側の通信が遮断されたと同時にオートロックの扉が開いた。
「美月の声……元気なかった」
「彼女にとってはこれから辛い展開になることは間違いないでしょうね」
居住フロアのロビーで二人はエレベーターを待った。到着したエレベーターが比奈と真紀を美月の自宅のある六階に運ぶ。
「木村さんから上野警視に連絡があってね。2年前に佐藤が美月ちゃんに会いに来たそうよ」
「2年前に? そんな話、初めて聞きました」
「比奈ちゃんにも言えなかったのね。木村さんと美月ちゃんは佐藤が生きていることを警察に黙っているつもりだったらしいの」
美月が親友の比奈にも佐藤の生存を隠していたことに、比奈は怒りを感じなかった。比奈の父親は警察官だ。
もしも比奈が犯罪者の佐藤の生存を知ればそれを警察官の父親に秘密にしておける?
美月の気持ちを考えれば隠したくなるのも当然なのかもしれないとさえ思えてくる。
「美月は佐藤さんが本当に好きだったんです。あの時の私達はまだ高校生でしたけど、あれは美月の本気の恋だったんです」
「うん。私もそう思う。美月ちゃんは佐藤を本気で愛していた」
「たぶん今も……今でも美月は……」
言いかけた比奈の言葉の続きは真紀にもわかっている。エレベーターが開いて二人は六階の通路に降り立った。
「佐藤さんが生きているのなら、小山さんは佐藤さんを捕まえるんですか?」
まだエレベーターの前から動かない比奈は真紀を見据える。
真紀としては非常に答えにくい質問だ。比奈の眼差しが彼女の心に突き刺さる。
「12年前の事件は被疑者死亡で処理されている。でも佐藤が犯した罪は12年前の事件だけではないはず。刑事である私や上野警視も、比奈ちゃんのお父さんも、佐藤を追わなくちゃいけない。……ごめんね」
「私に謝られても……。一番辛いのは美月です」
比奈は泣きそうになる目元を押さえた。今は冷静になるべきだ。ここで自分が泣いても怒っても何の解決にもならない。
美月の代わりに真紀や警察を責めても仕方ない。
誰が一番辛い? 誰が一番悲しい?
大切な友人のために何ができる?
比奈は気丈に605号室の呼び鈴を鳴らした。開けた扉から現れた美月は真っ先に比奈に抱き付いた。
美月の華奢な身体は震えている。
「小山さんに事情は聞いたよ。私も一緒に話聞いてもいい?」
美月は後方の真紀を見て、それから比奈を見て頷いた。比奈と共に木村家に招かれた真紀は今日ここに比奈がいてくれて助かったと心から思う。
605号室のリビングでは長女の美夢が子ども用の布団の上ですやすやと寝息を立てていた。美夢の無垢な寝顔に癒されたのも束の間、真紀は本題に入った。
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