第六章 Runway
6-1
薄暗い礼拝堂。燭台に灯された炎が形を変えて動いている。炎の光に照らされたマリア像が暗闇に浮かんでいた。
12月9日、午後11時。冬の夜の礼拝堂で寺沢莉央は祭壇の前のマリア像を見つめていた。彼女はマリアに問いかける。
――“私の選択は正しいのでしょうか?”――
目を閉じて胸の前で両手を合わせる。それは祈り? 懺悔? 誓い?
背後で扉が開かれた。振り向いた莉央と目を合わせた人物は扉を丁寧に閉めて通路を歩いてくる。
「来てくれたのね」
「当たり前でしょう」
香道なぎさは祭壇の前で佇む莉央の横に並ぶ。ここはなぎさと莉央の母校、聖蘭学園の礼拝堂。
なぎさと莉央にとって青春時代の思い出が詰まる懐かしい場所だ。莉央がなぎさの前から姿を消した高校3年の夏休み以来、7年振りの再会だった。
「冷えるね」
なぎさは両手をこすり合わせて息を吹き掛ける。吐く息が白かった。
この時間帯の礼拝堂にはもちろん初めて訪れる。ステンドグラスで彩られた月明かりが神々しい。
「こんな時間に呼び出してごめんね。早河さんは?」
「車で待ってる」
「そっか。気を遣ってくれたのかな。……これが最後のひとつ」
莉央はコートのポケットから赤色のUSBメモリを出してなぎさに渡した。このメモリで四つ目だ。
「莉央も考えたよね。武田大臣、阿部警視、うちの父、それぞれにUSBを送って仁くんの手に届くようにするなんて」
「キングに気付かれないように早河さんとコンタクトを取るにはこの方法しかなかった。なぎさのお父さんを巻き込みたくはなかったんだけど……」
ベンチに腰掛けた莉央の隣になぎさが座る。手のひらに収まるUSBをなぎさは見下ろした。
「父だって当事者だよ。USBと一緒に送られた莉央からの手紙もちゃんと読んでた。兄のこともあって……最初は戸惑っていたみたいだけど莉央の気持ちは伝わったと思う。父も母も莉央を心配してた」
「最後になぎさのお父さんとお母さんに謝りたかった。お兄さんにも……」
「これから償えばいいじゃない。父も母も、兄も……莉央のことが大好きなんだよ」
ふたつの影がマリア像の前で揺れている。莉央とこんな風に言葉を交わしていた十代の頃。
いつも隣にいた莉央の抱える痛みに気付いていながら何もできなかったあの頃の自分が、成仏できない幽霊のように7年間ずっとまとわりついている。
あの時と同じ想いは二度としたくない。
「どうして貴嶋を裏切ってまで私達に協力したの?」
「本当のマリオネットがキングだってことに気付いてしまったからかな」
「マリオネット?」
「キングの父親……辰巳佑吾。キングは辰巳の操り人形なのよ。私は彼を辰巳の呪縛から救いたい。だから……」
「だからカオスの情報をこちらに流して貴嶋の計画を止めようとしているのね」
言葉を引き継いだなぎさに向けて莉央は頷いた。
「そのUSBはパンドラの箱。カオスにとっては開けた瞬間に絶望が訪れる。でもなぎさと早河さんにとっては希望が残る物よ」
パンドラの箱と呼ばれたUSBを握り締める。莉央の想いが込められたパンドラの箱を早河に渡すこと、それが香道なぎさの役割だ。
「ねぇ、なぎさ。人を愛するって何なのかな……」
マリア像を眺めて莉央が呟いた。莉央の問いを受けてなぎさは無意識に左手薬指の婚約指輪に触れる。
人を愛するとは何か。
「愛することは守ることだと私は思う」
「守る?」
「守り方はみんな違うよ。私には私の、莉央には莉央の守り方がある。今だって莉央は貴嶋を辰巳から守ろうとしているでしょ?」
「そうね。愛することは守ること……」
莉央の柔らかな笑顔は聖母マリアの微笑みによく似ていた。
*
――12月11日、午後5時。
霊安室のベッドの上で穏やかな顔をして永遠の眠りについた莉央の頬になぎさは手を添える。
「守りたかったんだよね」
天使とも女神とも思える綺麗な寝顔はすべてを受け入れ、覚悟を決めた者の安らかさが感じられた。彼女はこの結末を最初から覚悟していたのかもしれない。
莉央が最後のUSBメモリをなぎさに手渡した礼拝堂でのあの夜が莉央との再会と永遠の別れになってしまった。
貴嶋に撃たれた腹部の傷からの出血と臓器の損傷が酷く、莉央は手術中に息を引き取った。貴嶋佑聖の31歳の誕生日である12月11日が皮肉にも莉央の命日となった。
霊安室を出た廊下で早河仁がなぎさを待っていた。無言で抱き付くなぎさを彼は強く抱き締める。
『ごめんな……』
2年前も今回もなぎさの大切な人を守れなかった無念と無力な自分への憤りが早河を苦しめる。
一番大切な人の大切な人をまた守れなかった。
早河の腕の中でなぎさは首を横に振る。彼にしがみついた手は震え、なぎさは声をあげて涙を流した。
泣きわめくなぎさの首にはネックレスチェーンをつけた金色の指輪が光る。指輪に刻印された名前はMIYUKI。
莉央の母、寺沢美雪の形見の指輪は莉央の形見としてなぎさに受け継がれた。
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