6-2
木村隼人と加藤麻衣子は霊安室の扉の前で足を止めた。二人を連れてきた上野警部が扉を開ける。
ベッドに寝かされた莉央の姿から麻衣子は目を背けた。まだ部屋にも入っていないのに彼女の視界はぼやけている。
隼人が麻衣子の手を握る。麻衣子が視線を上げると唇を噛んで真っ直ぐベッドを見据える隼人がいた。
『気が済むまで居ていいから』
二人に一声かけて上野が霊安室の扉を閉めた。隼人と手を繋いだまま、麻衣子は莉央の遺体に近付く。隼人と一緒にいなければ不安で怖くて一歩も動けなかっただろう。
「痛かったよね。苦しかったよね……」
もう話すこともできない莉央に語りかけた。7年振りの友との再会は生きて叶わなかった。
隼人も莉央へと手を伸ばす。彼女の冷たくて滑らかな頬にそっと触れた。
『やっぱりお前……死ぬつもりだったんだな』
隼人の悲痛な呟きに麻衣子も胸が押し潰されそうに痛い。
「あの夜に隼人の様子が変だったのって莉央と会っていたからなんだね」
『ああ……』
隼人が勤めるJSホールディングス爆破事件があった12月9日の出来事には続きがあった。
*
――12月9日、JSホールディングス本社爆破後。芝公園野球場に避難した隼人を含む社員全員に自宅待機が命じられた。
社員達は散り散りに帰路を辿り、隼人も地下鉄の芝公園駅に足を向けていた。
芝公園駅の出口に到着する直前に誰かに名前を呼ばれた。美月の携帯は繋がらず、他にも気掛かりなことがあり考え事をしていた彼はその声がどこから飛んできたかわからない。
「木村先輩」
もう一度名前を呼ばれた。自分を先輩と呼ぶ人間は限られている。どこかで聞いた覚えのある声の主に気付いた隼人はハッとして振り向いた。
セミロングの黒髪を冬の風になびかせて彼女は立っていた。数年の時を経て雰囲気は変わっていても彼女の顔立ちには見覚えがある。
『……沢井』
「ご無沙汰しています」
隼人の前に現れた女は大学の後輩の沢井あかりだった。彼女は3年前の静岡連続殺人事件の直後に大学を中退し、アメリカの実家に帰ったと聞いている。
『帰って来てたのか』
「日本に少し用があって」
彼女はヒールの音を鳴らして隼人に歩み寄る。3年前よりも大人びた雰囲気を漂わせるあかりは隼人の知らない女性に映った。
それほど親しい間柄でもないが可愛がっていた後輩ではあった。
「半年前、早河探偵に私のことを調べさせましたよね」
『3年前のことが気になってな。悪い』
「謝らなくていいですよ。先輩が気にする気持ちもわかります。早河探偵から報告を受けていると思いますので開き直って言いますが、私は犯罪組織カオスのメンバーです」
改めて本人の口から聞かされた沢井あかりのもうひとつの顔。わかってはいてもそうであって欲しくなかった。
『犯罪組織のメンバーがどうしてこんな所に?』
「先輩に話がある人がいます。私と一緒に来ていただけますか?」
『俺に話? 誰だよ』
「クイーンと言えばお分かりですよね」
隼人の瞳が揺れた。クイーン、その呼称で呼ばれる彼女とはもう会うことはないと思っていた。
『寺沢莉央が俺に? なんで……』
「それは本人に聞いてください。私はあなたを連れて来るようクイーンから指示を受けただけです」
『……わかった』
あかりの一歩後ろに下がって隼人はあかりについていく。
『お前はクイーンの何なんだ? 付き人? 世話役?』
「そんなところですね」
『亮には会ったのか?』
多くを語らないあかりを揺さぶるには最適な方法だと思った。しかし隼人の思惑は外れ、まったく動じる気配のないあかりは信号待ちで立ち止まった。
「彼に会う必要がありますか?」
『元彼なら久々に会いたいと思わねぇの?』
「先輩は元カノに会いたいと思うことがあるんですか?」
これではただの押し問答だ。隼人は舌打ちしてあかりから視線をそらす。
『昔の方が可愛げがあったな。今のが本性か』
「どうにかして私の真意を探ろうとする先輩が悪いんですよ。彼の名前を出せば私が動揺すると思いました?」
あかりは隼人を無視して青に変わった信号を先に渡った。肩を落として隼人も足早に信号を渡る。
「先輩の会社、大変な騒ぎですね」
『しれっと他人事みたいに言うなよ。どうせお前らの仕業だろう?』
「お察しの通り。ですが、事情は少し違います。先輩の会社の爆破、本当は爆発の規模がもっと大きくなる予定だったんですよ」
コンビニや飲食店、オフィスビルが並ぶ通りを歩いて二人は路地裏に入った。路地裏に面したビルの扉を彼女は開けた。
『大きくなるって……』
「あの会社の……先輩がいる経営戦略部のフロアにも被害が及ぶ規模の爆弾が当初は仕掛けられる予定でした。被害が比較的最小限に抑えられたのは事前に爆薬の量を変えたからなんです」
『じゃあもし爆薬の量を変えずに爆発していたら… 』
「先輩は今頃生きてはいません。先輩だけでなく、他の方達も。……どうぞ」
開け放たれた扉からビルに入ったあかりが扉を押さえて隼人を待っている。今頃自分は生きていなかったと思うと全身に寒気が走った。
隼人が中に入るとあかりが後ろで扉を閉めた。
『それってやっぱり俺を殺そうとして?』
「キングに命を狙われる心当たりが先輩にあるのならそういうことになりますね」
『心当たりってそんなもの……』
「ないとは言い切れないはずですよ。言っておきますがクイーンはキングの恋人です。そして先輩は美月ちゃんの恋人ですよね」
見たところリフォーム途中のビルらしい。床はブルーシートで覆われ、室内はかすかに埃っぽい。電気も暖房もついておらず、小さな窓から差し込む太陽の光が唯一の光源だった。
『邪魔者の俺をキングが殺そうとしたってこと? お前のとこのキングってそんなに嫉妬深いのかよ』
「詳しくはクイーンに聞いてください。この階段を上がった先に彼女がいます」
コンクリートの階段をあかりが指差す。ここからはひとりで行けと言うことだ。
あかりの視線を背中に感じながら隼人は階段を上がる。途中の踊場で右に折れてまた上がり、数段上がると開けた空間が見えてきた。
一階と同じくブルーシートが敷かれた部屋に彼女がいた。窓辺に寄り添う寺沢莉央は隼人を見て口元を上げた。
『デートのお誘いに部下を使うなよ』
半年前の夕暮れの別れ以来、二度と会えないと思っていた莉央を前にして気の効いたセリフが浮かばない。
「あの子が自分からお使いを志願したのよ」
二人の距離が近付き、互いに触れ合える位置で隼人と莉央は向かい合った。
『沢井に聞いた。爆弾……量を変えたからあれだけで済んだけど本当は……』
「本当はあなたはあの爆弾で殺されるはずだった」
『あんたが指示して変えさせたのか?』
莉央は無言で微笑むだけ。グレージュの髪を耳にかけて彼女は頷く。
『俺を殺すことがキングの命令なのに逆らって大丈夫なのかよ?』
「そうね。今頃キングは不審に思って調べさせているでしょう。調べれば爆薬の量が指示していた量の半分以下になっていることに気付く」
平然と語る莉央の両肩を隼人は掴んだ。
『なんでそんな平気そうに言うんだよ。つまりキングを裏切ったってことだろ? あんたが危ないんじゃ……』
「あなたを殺したくなかったの」
莉央は両肩を掴む隼人の手に優しく触れて彼の手を下ろさせる。行き場のなくなった隼人の右手を莉央の両手が包み込んだ。
「あなたが死ぬのは嫌だった。……ごめんね」
『どうして謝る?』
「今のあなたは悲しそうな顔してるから」
触れた手から伝わる莉央のぬくもりが隼人の奥底に眠るどうしようもなく、どうすることもできない感情を加速させる。
『あんたに聞きたいことが山ほどあるんだけどな。今はそんなもの吹っ飛んで頭の中が真っ白だ』
彼は莉央の身体を腕の中に閉じ込めた。きつく抱き締めて抱き合って、二人は沈黙を共有する。
「最後にまたあなたに会えてよかった」
『縁起でもないこと言うな。どこにでも現れる神出鬼没女だろ? またふらっと俺の前に現れろよ』
「本当に変な人ね」
莉央は隼人の身体を押しやって彼から離れた。彼女は黒色のロングコートのポケットに両手を入れて子どものように歯を見せて笑う。
「さて問題です。ポケットからは何が出てくると思う?」
『またそれか。……飴?』
苦笑いして答えた隼人に向けて莉央はポケットから出した物を差し出した。赤いネイルに彩られた莉央の手に握られているのは棒つきの飴。
飴の包み紙は莉央のネイルと同じピンクみのある赤色だった。
「大正解。つまらないなぁ」
『どう見たってそのポケットに拳銃があるとは思えねぇし、煙草吸うにはここは空気が悪い』
「煙草吸うのに空気の良い悪いが関係ある?」
『ある。煙草ってのは空気の良い場所で吸いたくなるんだよ。今度は何味? コーラ?』
隼人は莉央の持つ飴を受け取って包みを眺めた。半年前に莉央が舐めていた飴は青色のラムネ味。
この包みには苺の絵が描いてある。
「残念。イチゴミルク」
『うわっ。甘そう』
「いらないなら返して」
『ありがたく貰っておく』
イチゴミルクの飴が今度は隼人のコートのポケットに沈んだ。そろそろ秘密のデートもお開きの時間だ。
『美月と連絡が取れないんだ。何か知らない?』
それまで無邪気に笑っていた莉央の表情に翳りが差した。
「……彼女はキングと一緒にいる」
『やっぱりそうか。美月はどこ?』
「今は教えられない。だけどキングがあの子に危害を加えることはない。彼女の身の安全は保証する。何があっても私が守るわ」
莉央の懇願の瞳に嘘は見えない。
『わかった。俺はキングじゃなくあんたを信じてる。今は足掻いてもどうすることもできないみたいだしな』
「ごめんなさい」
それ以上の事情を話すつもりはないと言いたげに彼女は隼人に背を向けた。莉央がもう何も話してはくれないと察して諦めた隼人も彼女に背を向ける。
『死ぬなよ。……莉央』
無言の背中に語りかけて彼は階段を駆け降りた。一階の扉を背にして沢井あかりが待っていた。
「駅まで送ります」
『いい。お前は主の側にいてやれ』
あかりが開けた扉から外に出る直前に隼人は足を止める。後方のあかりが怪訝に隼人を見上げた。
『
「唐突に古い話をしますね」
『まだ3年しか経ってねぇだろ。あの時、佐藤は間宮先生の殺害をある人間からの指示だと言っていた。佐藤に指示を出せる人間……間宮先生の殺害はキングの命令だろ?』
声を出して苦笑したあかりは笑った顔のまま隼人をねめつけた。
「先輩、サラリーマンよりも刑事になった方が向いてますよ。そこまでわかっているのなら私に聞くまでもないと思いますが」
『キングの命令だったとしてもお前が個人的に間宮先生を恨んでいたと俺は思ってる』
「だとしても私は間宮先生を殺していない」
『ああ、そうだ。お前は殺していない。だが……どこからが犯罪なんだろうな』
閉まろうとする力が働く扉を片手で押さえる。立て付けの悪い扉が軋んで不快な音を奏でていた。
「どこからが犯罪かなんて人間には決められません。それは神のみぞ知ることです」
『はっ。神ねぇ。このまま美月とも会わないつもり? それとも、もう会ったのか?』
渡辺亮の名には反応を見せなかったあかりが美月の名にはわかりやすく狼狽した。やはり、あかりのウィークポイントは美月だ。
「美月ちゃんとは会っていません」
『それでいいのか?』
「会いたいですよ。あの子は私の光なんです。でも会えない。私には美月ちゃんに会う資格がない」
『美月は今でも沢井を慕ってる。3年前のあの事件の後に音信不通になったお前のことをあいつはずっと信じてるんだ。……そういうとこ、美月らしいよな』
軋む扉の外に彼は足を伸ばす。あかりの声が聞こえる代わりに音を立てて扉が閉まった。
寺沢莉央と沢井あかり。二人の女との秘密の会談を終えた隼人は芝公園駅に繋がる道を引き返した。
――これが12月9日の隼人の身に起きた出来事のすべてだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます