第24話

彼女は、俺が唯一心を寄せた女性は、名を藤崎香澄といった。


「わー、なつかしい! この本屋、まだ潰れてなかったんだね」


彼女はクスクスと笑って、店の中をのぞき込む。


「菜々子の言ってたこと、本当だったねー」


彼女は、俺の顔をちらりと見ただけで、すぐに視線を尚子に移す。


「はー、お姉さんが出来たって言ってたけど、本当にあの有名人の荒間尚子だったんだ。まぁ、あの頃は、たいしたもんじゃなかったけど」


大きなお腹をして、香澄は足元に転がる紙切れを、どうでもテキトーに蹴飛ばした。


「おもしろーい」


「お母さん!」


菜々子ちゃんは、香澄の腕にしがみつく。


「ここの本屋さん、知ってるの?」


「えぇ?」


香澄は、思い出したように笑って、俺を見上げる。


「まぁ、ね」 


そう言って、香澄はまた笑った。


「ほら、帰るよ」


大きなお腹で左手に買い物袋を持ち、右手には菜々子ちゃんをぶら下げて、香澄は去っていく。


「なにあの女、かんじ悪くない?」


「別に、かんじ悪くないよ」


肩までのまっすぐな黒髪に、細い目。


それは、彼女の気の強い性格そのものだった。


中学三年生、初めて同じクラスになって、一目で恋に落ちた。


胸の奥が痛む。


「お腹すいた。ご飯食べよう」


彼女の姿を見ただけで、簡単に十五年前に戻ってしまう。


そんな自分を知られたくなくて、すぐにのれんをくぐるふりをして、尚子に背を向ける。


「知り合いなの?」


「同級生」


「あの女、かんじ悪い。あんな女にひっかからないでよ」


「ないって」


それだけを答えることすら、精一杯だった。


俺の背中で、尚子は好き勝手なことを言う。


「ま、妊婦さんみたいだし、あんたなんか、相手にする必要もないと思うけど」


膨らんだお腹。


俺には、そのことがとても悲しくもあり、同時にうれしくもあった。


彼女は今、幸せにしているんだろうか。


「同じ、同級生と結婚したんだ」


「へー。それも知り合い?」


「うん、まあね」


台所に向かった俺に、尚子は呆れたように言う。


「ちょっと、失恋したみたいになってんじゃないわよ」


「失恋じゃないし」


「好きだったんだー、まだ忘れられないとか?」


「何年前の話だよ」


「だから、新しい恋愛が出来ないとか言わないでよね。ま、あんたの場合、それ以前の問題だけどねぇ」


悪いけど、そんな話は、今はできない。


包丁を握る手に、思わず力が入る。


「ちょっと、そんなことよりお店のことだけど、いくら客がいないからってさ……」


「お前こそ、テキトーに男変えて、ちゃらちゃらチャラチャラ遊んでんじゃねーよ! お前に恋愛の話しされても、俺は何とも思わないからな!」


「なに言ってんのよ」


「また雑誌で話題になってただろ、いいかげんにしろよ」


尚子は笑い出した。


俺はとっさに、話題を変えることに、成功した。

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