第17話

レジ台に座ってうとうとしながら、ぽつりぽつりとやってくる客の相手をして、気がつけば午後をまわっていた。


ふと顔をあげると、店内で立ち読みしている女の子がいる。


その子には見覚えがある。


昨日料理の本を買っていった、懐かしい感じのする女の子だ。


立ち読みしている本は、辞書。


「何を調べてるの?」


俺が話しかけると、少女は驚いた顔をして、慌てて辞書を閉じた。


「ごめんなさい。どうしても、読めない漢字があって」


「どれ?」


彼女が指を差したのは、昨日買っていった本の『合い挽き肉』の『挽』という字だった。


「辞書で調べて、分かった?」


「読めないから、調べられなかった」


まぁ、確かにそうだ。


国語辞典は、そもそも文字が読めないことには、意味も調べられない。


「これは、『あいびきにく』って、読むんだ」


「どういう意味?」


「豚と、牛の肉をまぜてある挽肉のことだね」


そういうと、少女は料理の本に目を落とした。


開いているのは、ハンバーグのページ。


「ハンバーグ、作りたいの?」


その女の子は首を振った。


広げていた本を片付けて、急いで店を出ようとする。


「昨日、俺がうちでハンバーグ作ったんだ」


店の入り口で、少女が振り返る。


「偶然だね、余ってるのがあって、よかったら食べる?」


「知らない人には、ついて行っちゃダメだから」


その言葉に、俺は多少なりとも傷ついたけど、彼女の言うことは間違ってない。


「そっか、そうだね」


少女がぺこりと頭を下げて、一歩を踏み出したとき、ランドセルを背負っていない北沢くんが店に入ってきた。


「おじゃましまーす」


彼は誰にも臆することなく店の奥に進み、誰に邪魔される事もなく、勝手に居間へと上がり込む。


「お菓子、買い足しておいてくれましたぁ?」


そんな北沢くんの態度に、少女はとても混乱した様子で、俺と北沢くんを交互に目の玉だけで追いかけながらも、何かを一生懸命に考えている。


俺には、その怒りにも似たおどおどとした様子が、ここにきたばかりの千里みたいに見えた。


「一緒に、お菓子食べる?」


「読めない漢字が、他にもあるの!」


しっかりと本を胸に抱えた女の子は、そう叫ぶ。


「だけど、うちに辞書がないから、読めないの!」


「どれ? 教えてあげる」


俺はレジ台に座って、彼女はその前に立って、俺と彼女の間には、開かれた本のページが置かれた。


彼女がその細い小さな指先で、次々に繰り出す質問に答えながら、俺は時々彼女に質問をはさむ。


彼女の名前は藤崎菜々子、最近この近所に引っ越してきたばかりの小学四年生で、ご飯を作れるようになりたいらしい。


藤崎という名字は、俺の初恋の人と同じ名字だ。


「どうして、ご飯を作れるようになりたいの?」


「生物は、食べないと死ぬから」


いつの間にか戻って来た導師が、俺の足元にするりと忍び込む。


「ねぇ、和也さん、お菓子の買い置きって……」


ふいに居間と店を仕切るのれんの奥から、北沢くんが顔を出した。


彼は菜々子ちゃんを見るなり、牙をむき出しにして吠え始める。


「なんだよ、なんでお前がこんなとこにいんだよ!」


眉間にしわをよせ、本当に犬のように吠える。


「お前がこんなとこ、来ていいわけないだろ、さっさと帰れよ!」


俺もよく吠えられるから、犬って、ちょっと苦手なんだよねぇ。


そこを通っただけで、他には何にもしてないのにさぁ。


「彼女はお客さんだから」


「はぁ?」


俺がそう言うと、そのつばの飛ばし先が変わった。


「なにが客だよ、こいつカネ持ってねぇだろ、だってすっげー貧乏なんだぜ、こいつんち! お前はどうせ万引き犯なんだろ? 万引き犯! コイツはね、ど・ろ・ぼ・う! どろぼうなんだよ!」


少女の胸に抱えていた本が、するりと抜け落ちた。


大切なはずの、自分のお金で買った本が、床に落ちる。


彼女は北沢くんに飛びかかって、顔を殴っていた。


二人はそのまま、菜々子ちゃんは北沢くんにつかみかかったまま、居間に転がり込んだ。


必死で抵抗する北沢くんでも、馬乗りになった菜々子ちゃんの勢いは止められない。


何かを訴えようとしている北沢くんに、一切言葉を発する隙を与えない連続パンチ。


これは間違いなく、彼女を止めた方がいいやつ。


「菜々子ちゃん!」


正直こんな喧嘩の、一方的な殴り合いの仲裁に入ったことなんて、生まれて一度も無いから、どうやっていいのか分からない。


だけど、振り下ろされる彼女の腕を偶然つかめたから、ようやく連続パンチが止まった。


北沢くんの泣き声が、表通りにまで響く。


菜々子ちゃんは、あくまで冷静だった。


「ごめんなさい、勝手にお家に入っちゃって」


「いいよ」


「すぐに帰ります」


菜々子ちゃんは、履いたままだった靴を脱いで、両手に持った。


そして、自分の大切な本を持っていないことに気がついた。


「あれ! 料理の本は?」


混乱して辺りを見回す彼女に、俺が拾っておいたそれを差し出したら、初めて泣きそうなくらいの顔で笑った。


「ありがとうございました」


「俺はね、荒間和也、ここの荒間書店の店長、本屋さん」


菜々子ちゃんは、俺を見上げる。


「もう知らない人じゃないでしょ。一緒にお菓子食べよう。ほら、北沢くんも、泣き止んで」


こういう時の、お菓子パワーって、すごいと思う。


チョコレートで誘拐できるって、嘘じゃないと本気で思う。


ちゃぶ台一杯に広げたお菓子とジュースで、北沢くんと菜々子ちゃんの機嫌はすぐに直った。


「ねぇ、知ってる? コイツ、学校ほとんど行ってない問題児で、すごい有名人なんだよ」


菜々子ちゃんは、北沢くんの話を始めた。


「で、すっごい嘘つきで、適当なことばっかり言ってるから、もう学校の先生も、近所の人も自分の親も、誰も相手にしてないんだって」


「え! 私立の小学校に行ってるんじゃなかったの?」


「そんなのウソ、ウソ! 私と同じで歩いて行ける小学校行ってるもん。でさぁ、親が弁護士っていうのを自慢しまくるから、友達も出来ないんだって、みんなむかつくんだって、ウザイんだって」


親が弁護士っていうのは、本当だったんだ。


今度は北沢くんが、菜々子ちゃんの話をする。


「お前こそ、すっげー貧乏人の転校生が来たって、うちの母さんが言ってたぞ。頭悪い系の、典型的ダメシングルマザーだって、言ってたぞ」


「私は頭悪くないもん!」


「親がバカだから、お前もバカなのは、しょうがねぇだろ!」


「私はバカじゃない!」


菜々子ちゃんの地雷原は、どうもこの辺りにあるらしい。


頭が悪いと言われた彼女は、再び北沢くんに殴りかかろうとする。


「勉強なら、俺が教えてあげるよ!」


北沢くんの胸ぐらを掴み、拳を振り上げた菜々子ちゃんの動きが、俺の一言で止まった。


「お、俺も勉強は出来る方じゃないけど、たぶん小学生くらいの勉強までだったら、なんとかなると思うから」


「ほんとに?」


うなずいた俺に、北沢くんが言う。


「大丈夫かよ、コイツの親、万引きで捕まって転校してきたんだぜ!」


菜々子ちゃんの体が、ビクリとこわばった。


大丈夫、北沢くんが怖いんじゃない。


怖いのは、菜々子ちゃん自身が誤解されてしまうこと。

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