第6話 金木犀 - put up an umbrella in a rainy day -

 湿気を含んだ風に混じって、金木犀の甘ったるい香りがした。僕はいつものように、窓の外を見ていた。雲が厚く垂れ込めていて、今にも雨が降りそうだった。文化祭の前日にこれでは、明日の天気が心配だった。予報では晴れると言っていたが、それもどうか分からない。急な気圧の変化で局地的に雨が降るのも珍しくないのだ。

 僕たちのクラスは、文化祭の準備がほとんど終わっていた。準備と言っても、みんなで集まってやることはほとんどなかった。入り口にカーテンを貼り、黒板に催しの題名やコンセプトを書く程度のものだった。終業時間が近づき、教室に残っているのは僕一人だった。


 文化祭の出し物はいくつかの種類があって、クイズ大会をするクラスもあれば喫茶店を開くクラスもある。僕たちのクラスは、当日に色々見て回りたいからと展示系の出し物をすることになった。コンセプトは「自分自身」だった。個々人が考える自分自身を表現した作品を展示することになった。文系クラスということもあって、そういう自己表現の場が求められたのだろう。

 僕は絵を描くことにした。と言っても、美術部に入っているわけでもなく、鉛筆と水彩絵の具くらいしか使える道具はなかった。何かを模写するわけでもなく、自分の頭の中にあるイメージをキャンバスに描くというのも面白く、僕は毎日放課後に美術室の片隅を借りて少しずつ絵を仕上げていった。

 絵に向き合っていると、自分という存在が小さく感じた。まだ一介の高校生なのだから当然だが、果たして僕はこの先どうなっていくのか、その不安の方が大きく、そんな儚い気持ちが絵に出てしまっているようで、教室の壁に飾ったはいいものの、自分でじっくりと眺めるのは憚られた。


 終業のチャイムが鳴った。準備のない生徒は速やかに教室を出るよう、アナウンスがかかる。今日に限っては、まだ残っている生徒も大勢いるだろう。夜の高校は、昼間と雰囲気が違う。きっと、明日の後夜祭はもっと違った色に染まるに違いない。僕としては、そういう喧騒よりも外の風景を眺めている方がいいのだが、明日はそういうわけにもいかないかもしれない。クラスメイトはすでにどうすれば効率良く文化祭を堪能できるか考えているはずだ。一日中連れ回されることになるのも覚悟しておくべきだろう。

 僕はそんな風に明日のことをおぼろげに考えながら、教室を出て昇降口に向かった。雨が降り始めた気配がした。朝、出がけに傘を持ってきてよかった。


 外に出たところに女の子が立っていた。雨の中、顔を上げ、中空を睨んでいるようだった。震えているようにも見えた。

 その後ろ姿にはなんとなく見覚えがあった。僕は自分の傘を彼女に差し出した。

「濡れるよ」

 僕の声に彼女は振り向いた。やっぱり、中嶋さんだった。一年生の時のクラスメイト、今は二年一組だ。

 彼女も僕のことはすぐに分かったらしく、目を合わせたのも一瞬、今度は俯いてしまった。泣いているように見えた。

「とりあえず、校舎に戻ろう。風邪引くよ。明日から文化祭なのに」


 中嶋さんは、小さく頷いた。拭くものを何も持っていなかった僕は、とりあえず保健室まで連れて行った。幸い、養護教諭の桜井先生はまだ在室だった。部屋にいるわけにもいかず、僕はとりあえず廊下で待っていた。僕としても、どうして中嶋さんがあんな風に外で雨に打たれていたのか、その理由は知りたいと思った。

「中嶋さんが呼んでるわよ」桜井先生に声をかけられ、僕は保健室に入った。そういえば、この部屋に入るのは初めてではないだろうか。小さいころならともかく、体育で怪我でもしない限り、男が踏み込む場所ではないのだろう。花やレースがあしらわれ、高校とは思えないような上品さがあった。


「ごめん。付き合わせて」

「いいよ。それより、訳を聞かせてくれる?」

 中嶋さんはぽつりぽつりと話をしてくれた。文化祭で使う紅茶の箱が行方不明になった、簡単に言えばそういうことらしい。僕は探していた時の状況を聞いて、なんとなく考えるところがあった。

「ちょっとついてきて」僕は中嶋さんを連れて保健室を出た。調理室に行き、クラスの書かれた紙を見て、確信した。

「たぶん、これが原因だよ」僕はクラスの書かれた紙を反転させた。最初からこんな書き方をしなければ、取り違えなんて起こらなかったはずだ。洒落たつもりだろうが、クラスはデジタル時計の文字盤と同じスタイルの書体で書かれていた。


「1−2、ってこと?」反対側から見ると、不幸にも違うクラスになってしまう。

「そう。考える限り、クラスの表記で誤解が生じるのは1−2と2−1の組み合わせしかないし。一年二組は紅茶使わないんでしょ? だったら、紅茶は知らないか、と聞いても正しい答えは返ってこないよ」


 紅茶は無事に1−2から見つかった。まだ教室に生徒が残っていたから助かった。事情を話して箱を開けさせてもらった。紅茶のパックがしっかりと入っていて、一年生はおどおどいていたが、別に彼らが悪いわけでもなく、僕と中嶋さんはお礼を言って引き上げた。

「ありがとう。これで朝からお店が開ける」中嶋さんは2−1の教室まで紅茶を運んだ後、ようやく笑顔になった。


「よかった。明日、早速お店に行ってみようかな。中嶋さんのマレフィセントも見てみたいし」

「なんで知ってるの?」

「クラスの女子が話してたんだ。みんな楽しみにしてたから」

 頬を赤らめて恥ずかしそうに頭を抱える仕草がなんとも可笑しくて、僕は思わず笑ってしまった。

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