第4話 秋桜
マスクをつけていたら、隣に座る後藤さんがあれ、と視線を寄越してきた。
「どうしたの。風邪?」
私はなんと答えたものか、一瞬考えた。考えていること自体を悟られてはいけないと、普段使っていない脳みそをこねくり回す。
「そうなんですよ」わざとらしく咳までして、ずり下がりそうなマスクを直す。
「季節の変わり目だから気をつけないと。悪化したら大変だからな」後藤さんは暑苦しい程の大声で言う。途端に同じ部署の数人がこちらに視線を向ける。同期の笠間君まで私を見てくるので、慌てて顔を背ける。
「大丈夫ですよ。そのためのマスクなんですから」私はそう言うのがやっとだった。
随分と前から、巷では風邪でもないのにマスクをつける若者が増えているらしい。マスクが社会と己とを隔てるバリアであり、そうやって若者は緩やかに世間と関わる術を身につけているという。報道番組の特集で観たような気がしたが、私は幸か不幸かそういう志向を持ち合わせてはいなかった。花粉症持ちの自分としては、マスクは困難と憂鬱の象徴のようなものだった。できることなら着用したくない。まさか、花粉の季節以外でこれを身につけることになろうとは。
後藤さんが満足げな表情をして自分の席に向き直り、周りの同僚も自分の仕事に戻った。やれやれと、私もパソコンの画面に向き直る。
製造部門から上がってきた仕様書に目を通しながら、企画書を仕上げていく。電話で何度か不明な箇所を確認し、体裁を整えているうちに、17時半を回ってしまった。
「菊池さん、今日はあとどのくらいかかりそうだい」課長の篠塚が声をかけてきた。
「あと、30分くらいです。明日の朝、この企画書確認していただけますか?」マスク越しで声がこもる。
「もうできたのか、仕事が早いな」篠塚はよしよしと頷いている。「体調が思わしくないようなら連絡してくれ。明日は無理をしなくていいぞ」
「いえ、大丈夫です」課長はいつも課のみんなを気遣ってくれる。優しい理想の上司であったが、さすがに私のマスクの意味までは汲み取ることができないようだ。その方がありがたいとも思う。
時間通り、18時に企画書は完成した。私は椅子に座ったまま伸びをする。呼気がマスクの中で渦を巻くようだ。一日中デスクにしがみついているのはやはり疲れる。だから寝坊をしてしまうのだと、自分を戒める。
パソコンの電源を落とし、机の周りを片付ける。
「上がります。お疲れ様でした」
みんな口々にお疲れ、と返してきた。その声はどこか心配そうだ。私はチクリと心が痛んだ。
オフィスを出る。群青色に染まった空、雲だけがまだ夕方色をしていた。新商品の企画がまとまって良かった。実際に企画が動き出せば、来年の今頃には店頭に並ぶはずだ。花柄を特徴的にあしらったワンピース、キーワードは乙女の純真だ。
「うまくいってよ」私はマスクの中でつぶやいた。独り言を言っても憚れないというのも、マスクをつけているからこそなのかもしれない。
それにしても、まさかノーメイクで一日を過ごすことになるとは思わなかった。私の中の乙女はもうすでにいないのかもしれない。そんな自分が純真のイメージを形にできるのか、不安になる。
今日は早く帰ろう。ご飯を食べて、お風呂に入って、ゆっくり髪の毛を乾かせばいい。乙女でなくても、純真でなくても、きっとうまくいく。そう信じることでしか、自分を保ってはいられなかった。
これがうまくいったら、笠間君にご飯をおごってもらうという約束をしていた。その時は、ちゃんと早起きして、きちんとメイクをしていこう。不精ではいけない。乙女と言える年齢かはさておき。
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