第3話 百日紅
夏の日差しは相変わらず、僕のはるか上、1億5000万kmもの彼方から降り注いでいる。4つの水素原子が衝突してヘリウム原子に変わる時、質量が少しだけ小さくなる。50億年間休むことなく続く核融合反応によって放出されるエネルギーがこの暑さの源だと思うと、それも仕方がないと感じる。
午後の一番暑い時間にわざわざ出歩くこともないのだが、一人で部屋に閉じこもっていても電気を無駄に使うだけだと思い、近くの公園まで散歩をすることにしたのだ。太陽はすでに高く、僕の影はひどく短い。遠くの梢から蝉の鳴き声がする。
向かいの商店では店主が打ち水をしていた。水の粒が光を反射する。濡れたアスファルトがてらてら光るが、それもすぐに乾いてしまう。効果はいかほどか、それは店主でなければ分からないだろう。
しばらくはぼんやりと、何も考えずに歩いていた。せいぜい、道路を渡るときに車が来ないことを祈っていたくらいだ。幾つかの路地を渡り、通行人をやり過ごす。遠目に見る街道の淵は陽炎がかかっていた。
公園が近づくにつれ、蝉の声が大きくなる。入り口を入り、近くのベンチに腰掛ける。すぐ横に立つケヤキのおかげで僕の体は影の中だ。汗が額から溢れる。汗は大体遅れてやってくる。汗を垂らしながら歩くよりはマシだが、不快には違いない。
途中の自販機で買ったスポーツドリンクの蓋を開ける。ペットボトルには結露が張り付いている。この程度の水蒸気が空気中から奪われても、この蒸し暑さが軽減されることはない。一口飲む。喉の奥から清涼感が全身に伝わる。ふうっと息を吐く。
公園をぐるりと見回す。炎天下の中で遊んでいる子供はほとんどいなかった。いるのは煩わしい蝉と、カラスと、それらを見守る樹や植え込みの植物だけだ。
僕の目が一つの花に止まった。
「ねえ、百日紅って、どうしてこの漢字なんだろうね」
その声は紛れもなく由莉のものだ。いつだったか、スマートフォンの画面を見ながらそう言っていたのを思い出した。あの頃は、二人でこうして散歩をしていた。たまたま目に入ったサルスベリを見て、由莉が検索したのだ。
「なんでだろうな。この花なんて白いしな」当時の僕は知らなかったが、百日紅には白い花もあって、その時二人で見ていた花は小さな白い花弁と黄色い雌しべが印象的だった。
「サルスベリ。猿も木から落ちるって、この木のことかな」
由莉は子供のように、分からないことはなんでも聞いてくる。一方僕は、知らないことは知らないまま、ずっと放置をしていた。関心の範囲外の事柄に興味を持ったこともないから、何を知らないのかも分からなかった。
「どうだろうな。確かにツルツルしてる」木の幹はまるで皮のように滑らかだった。幹をつたって移動するのは難しそうだ。
「あ、由来載ってる。100日赤い花が咲いてるから、だってさ」
「じゃあ、当て字ってことか」
「そうみたいだね」由莉は嬉しそうに微笑む。すると、由莉はまた疑問を口にする。「花言葉は雄弁だってさ。どういうことだろうね」
「花言葉ってさ、愛とか勇気とか、そういう類の言葉が多いよな」
「そうだよね。雄弁って、そんなに強いのかな」
「花が? それも変だよな」
僕たちの会話はそうして果てることがなかった。僕が、それまで知ることのなかった世界に触れることができたのも由莉のおかげだった。花、生き物、政治、経済、地球、宇宙、金融、そうした新しい知識が僕の暮らす日常と地続きで存在している。無知でいることは罪だ、と由莉は言っているようだった。由莉はそんな僕のために、その命を削ってまで僕と一緒にいてくれたのかもしれない。
そういう意味では、由莉は雄弁だった。僕にとっては、まさに百日紅だ。長い間、僕の横には地味だけれども可憐な花が咲いていたのだ。僕はそれに気づくことができなかった。僕は最後まで無知でどうしようもない奴だったのだ。
額の汗が徐々に引いてきた。僕の視界に映る百日紅は、あの時に見たものと同じ白い花弁をこちらに向けていた。
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