第2話 朝顔

 夏休みが楽しみでない子供はいない。もちろん僕もその一人だった。ただ、長期の休みに入る前には、普段とは違うことをしなければいけない。机の中に入れっぱなしの色鉛筆や三角定規などの文房具を持ち帰る必要があったし、理科の授業で育てた朝顔を鉢ごと抱えて帰らなければいけなかった。

 終業式の日、僕は帰り際に校庭の片隅に置かれた朝顔の鉢植えを取りに行った。文房具はすでに持ち帰っていたから、残りは鉢植えだけだった。クラスの友達は大体そんな計画性を持ち合わせていなくて、学校と家を往復する羽目になっていたため、朝顔はまだ多くがその場に残されていた。体育館に続く回廊とケヤキ並木の間、まばらに落ちる影の隙間から夏の日差しが朝顔に注ぐ。それは朝顔の葉にある斑のようだった。


 僕は自分の鉢植えを探す。鉢植えにはそれぞれ名前が書いてあった。僕は「三上祐輔」を探して鉢植えの間を行ったり来たりしていた。ある程度の場所は決めているのだが、意図せず位置が変わっていることがよくあった。どうやら用務員のおじちゃんがそれぞれの鉢植えの日当たり具合を気にして、定期的に配置を変えていたらしいとは、同窓会の時に初めて知ったのだ。当時は、一体誰がこんないたずらをしているのかといぶかしんでいた。

 蝉の声がジージーと喧しい。校庭や体育館では元気が有り余った誰かがボールを追いかけたり、遊具で遊んだりしていた。それも楽しそうだったが、運動があまり得意でない僕には縁がなかった。朝顔はすっかりツルが伸び、僕の目の高さくらいまで成長していた。大抵の朝顔は大きな葉を茂らせ、青や紫色の花を咲かせていた。ラッパのような姿の花が鉢から溢れんばかりに咲いていた。そのうちの一つには「風間みどり」の名前もあった。

 風間さんは成績も良く気立ても良くそして器量も良いという、完全無欠の女の子だった。才色兼備を自で行く彼女は、当然のようにクラスのアイドルであり、学校中の男子の憧れの的だった。僕とは月とスッポンだ。


 ようやく見つかった僕の鉢植えは、残念ながら手前側の朝顔に隠れて、少し発育が悪いようだった。葉っぱには斑が混じっていたし、花はまだ固いつぼみのままだ。家に持ち帰ったら、庭の一番日当たりのいいところにおいてあげよう。水もちゃんとやらないといけない。

 鉢植えを抱えて持ち上げる。僕の視界はたちまち葉っぱと茎と支柱でふさがってしまった。葉の表面に生えている細かな毛が頬をくすぐる。僕は慎重に慎重に、一歩ずつ後ろへ下がる。


「三上くん?」いつもは教室で遠くから聞いていた声がすぐ近くでした。僕は支柱の隙間からその方向に目だけ動かした。

「うん。風間さんも朝顔取りに来たの?」

「そう。最近様子見てなかったけど、みんなちゃんと咲いてるね」

「そうだね」僕はどうしようかと思った。タイミングが悪い。今はまだ、周りの朝顔が僕のみすぼらしいそれを隠しているが、それも時間の問題だろう。僕だっていつまでもこうして抱えているのは辛かった。一度地面に置きたい。でも、そうすると、つぼみばかりの鉢植えが風間さんの目に入ってしまう。

「三上くん重そう。手伝う?」風間さんは、ほとんど話したことのない僕にも優しく声をかけてくれた。それだけで頬が赤くなる。

「ううん。大丈夫。風間さんも自分の鉢植え探した方がいいよ。また場所がぐちゃぐちゃだから」


 風間さんの鉢植えは探すまでもなく一番手前にある。もう一歩前に出れば視界に入る距離だった。でもうまく名前が隠れているのか、風間さんは鉢植えの群れに分け入って行く。視線が落ちる。僕はその隙に鉢植えを運び出した。ケヤキの樹の下に鉢植えを置いた。そろそろと通り過ぎる風が気持ちよかった。

 風間さんはまだ探していた。つると支柱の間からちらちらと見える風間さんの黒髪をじっと見ているのも罰が悪い感じがして、風間さんに近づいた。

「僕も探すの手伝う」風間さんの鉢がどこにあるか知っている僕にとって、それはたやすい仕事だった。

「うん。ありがとう」僕はその声をもっと聞きたいと思った。鉢を見つけてしまってはそれでサヨナラになってしまう。


 何度風間さんの鉢植えの前を通り過ぎただろう。

「見つからない?」途切れ途切れに話しかけた。

「ううん。だめ。あ、須藤さんの朝顔、すごくたくさん咲いてる」風間さんも漫ろではあったがちゃんと受け答えをしてくれた。

 風間さんが手前側に戻ってきた。僕は強引に鉢植えの間を通り、奥に移った。僕は中腰になり、探す真似事を続ける。


 しばらくすると、「三上くん。ありがとう。見つかったよ」という風間さんの声が聞こえた。僕が朝顔の鉢植えを抜け出した時には、すでに風間さんは鉢植えを抱えて回廊の脇を校庭に向かって歩いているところだった。

 僕は掌をパチパチと数回打ち合わせた。汗をかいていた。さよなら、僕は心の中で唱えた。

 自分の鉢植えのところに戻る。

「あれ」朝顔の花が咲いていた。さっきまで咲いていなかったのに、と思ったら、どうやら花の部分だけがつるに引っかかっているようだった。

 僕は慌てて振り返る。風間さんの姿はすでになく、蝉の声が響いているだけだった。

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