第14話 指示書の書き換え
これをしてしまったら主治医である笹森先生を裏切る事になり、今後仕事はもらえなくなるかもしれない。在宅で長い時間をかけて築き上げた信頼関係が崩れてしまう行為であり、管理者である関さんの許可も得ていない。
だけど今、目の前で苦しんでいる寅次郎さんを見て、このまま放っておくわけにはいかなかった。
関さんに申し訳ない気持ちになりながらも、僕はスマホの発信ボタンを押した。
『はい、中野ファミリークリニックでございます』
「お世話になっております。トータルケア訪看の築島です。速水先生の患者さんではないのですが、当ステーションの利用者で状態が思わしくない方がおりまして、急ぎで速水先生に診てもらいたいと思い、連絡しました」
『少々お待ち下さい。お繋ぎします』
事務員であろう女性の声から保留音にきりかわっ……
『どうした?ツッキーか?』
はやっ!
「あ、え、えーっと……」
あまりの早さにしどろもどろになってしまう。
『落ち着け、急患か?』
「はい、すみません。ウチの利用者で80代の寝たきりの男性なんですが、誤嚥性肺炎を起こしているようで、高熱とSATの低下があり、チアノーゼも出ています。意識レベルはJCSで二桁です」
『うんうん。よくないな。主治医と家族は?』
「主治医にも報告したんですが、解熱剤の指示しかいただけなくて、家族の意向で救急搬送もできませんが、主治医以外の医師への受診は許可をいただいてます」
『そうか。じゃぁ、すぐに行くよ。必要な物を教えてくれ』
「採血の用意と携帯の酸素ボンベ、絶食になるでしょうから点滴もお願いします。住所は中野3丁目××-◯◯です」
『オーケー!すぐに行く』
速水先生のクリニックは新井にあるから、すぐに来てくれるだろう。
「寅次郎さん。すぐに先生が来てくれるからね!もう少し頑張ろう!」
ゴロゴロと音を出しながら苦しそうに呼吸をする寅次郎さんに声をかける。SATは低いままで顔面蒼白だ。
スマホの着信音が鳴る。関さんからの着信だ。
『ごめん!移動中だった!どうかした!?』
「寅次郎さんが誤嚥性肺炎を起こしているみたいで、笹森先生に報告しましたが、まともな指示をいただけなかったので、勝手に速水先生にお願いしました。すみません!」
『あの、クソオヤジィ!わかった、何も問題ないわ!ありがとう!』
関さんとの短い会話が終わると同時に下の階がバタバタと騒がしくなる。速水先生が到着したのだろう。
「お待たせ!」
「先生、すみません無理言って」
「いいって。そのおじいちゃんかな?」
「はい。顔色も悪くなってきていて」
「取り敢えず酸素2リッターカヌラで開始しちゃって!」
速水先生の指示に付き添ってきたクリニックの看護師がテキパキと動き、速水先生は聴診器を当て診察を開始する。
「レントゲンは撮れないけど、まぁ、肺炎で間違いないだろうね。取り敢えず、採血とルート確保しよう。ツッキー頼めるか?」
「はい。やってみます」
全てを口に出さなくてもすでに必要な物品が差し出される。
腕に駆血帯を巻き、血管の状態を見る。見るが、丁度いい血管がない。どれも細く、採血と留置に耐えられそうにない。腕を上下左右に動かして血管を探すがなかなか良さそうな血管がない。
「目で見える血管なんてアテにならないわよ。指で触ってみて弾力を見極めるの」
付き添いの看護師、確か名前は山田さんだ。彼女の言う通りに目に見える血管ではなく、指であちこちを確かめる。
「医者なんてみんな注射はヘタクソだからな。彼女の指導だったら間違いないよ。ツッキー、スキルアップのチャンスだぞ」
「ありました。これなんてどうでしょう?」
ついついベテラン看護師に同意を求めてしまう。看護師の性かもしれない。
「自信を持って、いけると思ったら刺しなさい。自信がなければどんな良い血管でも刺さらないものなのよ」
山田さんは血管には触らず、代わりに酒精綿を差し出して来る。
僕は右前腕部に狙いを定め留置針を刺す。すぐに血液の逆流がみられ、血管を傷つけないようにゆっくりと外筒を押し進める。すぐさま採血用のホルダーが差し出され、内筒を抜いて外筒だけになった留置針に接続し採血を始める。赤、紫、灰色と3本の採血管に血液が入り、差し出された点滴のルートを固定する。初めは100mlほどの抗生剤から滴下する。
固定も終わり、滴下が始まったことでホッと胸をなでおろすが、依然SATは90%と低めであり呼吸も荒い。
「先生、なかなかSAT上がりませんね。どうしますか?」
「ん?いいよ、このままで」
いいのか?正常値からはだいぶ低いと思うんだけど……。
「なんで?って顔するなよぉ。この状態で酸素増やしたら確かにSATは上がるだろうけど、最悪の場合は呼吸性アシドーシスで呼吸が止まっちゃうよ?」
あ、そうか。そういう事だったのか。
呼吸性アシドーシスは、酸素の過剰投与によって呼吸機能が低下してしまう事だ。簡単に言うと大した呼吸はしていないのに身体に酸素が入ってくるから、脳が「もっと弱い呼吸でもいいな」と勘違いをして呼吸機能を低下させてしまう事だ。わかっていても気づけなかった自分が恥ずかしい。やはり、見た目はアレでもカリスマ医師だ。処置も適確でカッコいい。
「そ、だから今は何より肺炎の治療だよ。もちろん動脈ガスもチェックしながらね。それにしても、よく呼んでくれたね。このままだったら、この人は数日ともたなかったかもしれない。ホント、ツッキー達の訪看が入っててラッキーだっ……、関さん!!」
急いできたのだろう。息を切らして階段を上がってきた関さんが部屋に入る。
真面目な語り口調だったのに「関さん!!」で声が裏返ってしまう。カッコわるい。
「築島くん、遅れてごめんね。速水先生、ありがとうございます」
「いいよいいよ。ツッキーの判断が速かったおかげで大事には至らなかったよ」
「そっか、2人とも本当にありがとう。それにしても笹森のやつぅ!」
「そうか!それがあったね!指示書はウチから書き直してあげるよ。今日から僕が主治医になるね」
「でも、それじゃぁ……、報酬は入らないわよ」
既に書かれている訪問看護指示書を別の医師が新たに発行することは出来る。その場合は日付が新しい指示書が優先となるが、報酬は先に発行した医師が優先であり、後から発行した医師には報酬が支払われなかったはずだ。
「いいっていいって。大したことないって。そうと決まれば、笹森先生とやらに挨拶しないとね!山ちゃん、笹森医院に」
山田さんがスマホを取り出し速水先生に手渡す。
「このおじいちゃんも、みんなも嫌な想いしただろうからね。少しスッキリしようぜ」
速水先生は発信ボタンを押す。
『はい、笹森医院です』
スピーカー状態で通話しており相手の声が筒抜けだ。
「私、中野ファミリークリニックの“院長”をしております速水と申します。星野寅次郎さんの状態について笹森先生に報告したいのですが」
「いつもお世話になっております。お繋ぎしますので少々お待ち下さい」
保留音に切り替わり1分と待たずに笹森先生の応答がある。
『はい、笹森です。いつもお世話になってます』
不機嫌のカケラもみせない。お互いに面識はないはずだが、医者は患者や看護師には横柄だけど、同じ医者には年齢関係なく下手にでる傾向が強い。知らない相手でも大病院の教授や有名な医者と繋がっていたら恥をかくことになるからだ。
「いやぁ、先生!危なかったですよ!訪看さんいなければ星野さん死んじゃうところでしたよ!訪看さんの言うとおり誤嚥性肺炎でしたよ!」
『はぁ……。いえ、私も午後から往診に行こうと思っていたところで……。お手数をおかけしました』
速水先生の大きな態度のせいか、笹森先生は萎縮したように言い訳がましく返答する。
『あ、もう大丈夫ですけど、今後は僕の方から指示書も書きますので、来月は書かないでいただければ助かります。診療情報提供書はお願いしますね』
『いや、それは……』
「ご家族の意向もありますので、そのようにお願いします。それでは、また機会がありましたらよろしくお願いします」
一方的に話し、それも一方的に切り上げて電話を切る。速水先生の失礼な態度に、今頃出身大学や肩書きを検索しようとしている頃だろう。
「どうだった?スッキリした?」
ニヤニヤして僕と関さんを見る。
「スッキリしました」
「かなりね。でも、後で嫌がらせされるわよ……」
「その辺は大丈夫だよ。これでも僕は一流大学出で兄弟に教授もいるからね!親は大病院経営の超金持ちだよ!」
自慢かよ!ストレスの溜まりやすい職業ではあるが、今日は速水先生に救われた。
星野さんは油断できない病状ではあるが、これから毎日の往診と訪問看護をしていくことになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます