第13話 こんなもんです。
ゆっくりと人混みの中を自転車で走る。車道を走りたいが路上駐車や、急に停まるタクシーがそれを許さない。
汗でビショビショになっているスクラブを見て、すれ違う人々が訝しげな表情を浮かべる。
新井から中野駅を通り過ぎ、大久保通りと中野通りが交わる五叉路に辿り着く。環七方面に曲がり、少し走ったところで自転車を停める。
昔は商店だったらしい玄関を入り、二階へとあがる。
「こんにちはー。トータルケア訪看の築島です」
いつもながら返事はない。ヘルパーさんが帰った後なのだろう。
二階に一室しかない部屋へと入り、ベッドに横たわる老人に声をかける。
「星野さん、築島です。今日も来ました」
老人は反応もなく眠ったままだ。いつもなら目を開けて返事をしてくれるが、今日は眠ったままだ。寝息に混ざってゴロゴロと痰が絡む音が聴こえてくる。
僕はバイタル測定を後回しにして吸引をする事にする。朝食介助のヘルパーさんが吸引をしなかったのだろう。いつもならヘルパーさんの帰り間際に出くわすはずなのだが、今日はすでに終了して退出したようだ。ヘルパーさんも人それぞれなのだ。
吸引器の電源を入れチューブを用意する。吸引器には繋げずにチューブだけを鼻に挿入して気管の入り口を探る。吸引器にセットしてしまうと陰圧で気管に入りずらいためだ。サービスホールのあるチューブでは微調節しながらの吸引ができるが、そんな高級なチューブは在宅に置けない。
傷をつけないようにチューブだけをゆっくりと上下に動かす。抵抗なく、スッとチューブが進む。
「ゴボォ、ゴボォ」
反射で咳が出た事が気管に入った事を知らせる。
急いで吸引器に接続し、陰圧をかける。ズルズルとネバネバした痰が多量にチューブを通り抜けていく。1度では引ききれないため、途中で陰圧を解除して呼吸をさせる。取り切るまで陰圧をかけるわけにはいかない。そんな事をしたら最悪の場合は迷走神経を刺激して心臓か呼吸が止まる。
「ごめんなさいね。もう一回引きますからね」
十分に呼吸をさせてから、もう一度陰圧をかける。黄緑色の痰に混じり、食事の残渣物も一緒に引けた。
バッグからSAT《サチュレーション》モニターを取り出して、冷たく血色の悪い
なかなか脈波を検出することができず、表示がされないが呼吸が少し穏やかになったところで88%と表示される。健常者では大体95%以上なので、かなり低めだ。
「寅次郎さん!聴こえますか?看護師の築島です」
老人の名前を呼び反応を窺う。薄っすらと目を開けて口を動かすが、声にならない。
すぐにバイタルを測定する。体温を測ろうと身体に触れると手に伝わる熱から高熱であると予想された。血圧の低下はないが、熱のためか脈が100台と高めであり、SATは80%台から上昇しない。
体温計の電子音が鳴り確認すると、38.5℃と表示される。
胸に聴診器を当てる。かなりの量の痰を吸引したが、肺から「バリバリ」といった音が聴こえてきた。誤嚥性肺炎を起こしている可能性がある。抹消にチアノーゼも出てきており、すぐにでも酸素吸入が必要な状態である。
関さんの携帯を鳴らすが応答はなく、大関さんも応答がない。
緊急を要すると判断し、主治医である笹森医院に指示をもらうため電話する。
『はい。笹森医院です』
「トータルケア訪問看護の看護師、築島と申します。いつもお世話になっております。訪問看護指示書を戴いている星野寅次郎さんの事について緊急で笹森先生に報告したい事がありまして」
『少々お待ちください』
会話が保留音に変わり、緊急でと言ったにもかかわらず5分ほど待たされる。
『なに!?』
たった一言で不機嫌さが電話からでも伝わってくる。
「看護師の……」
全く話を聞く気がないのか、すぐに不機嫌な一言で遮られる。
『で、なに!?』
「星野寅次郎さんですが……」
『だから?』
まだ、何も言っていないのに……。僕は必要な事だけを一気にまくし立てる事にした。
「SATが80%台から上昇せず、抹消にチアノーゼも出ています。体温も8.5℃と高く、意識レベルはJCSで二桁です。吸引したところ、粘稠性の痰と食物残渣物が多量に引かれましたが、肺雑音も著明に聴かれています」
『アンヒバ200。くだらないことで電話してくるな!医者は俺だ!看護師の分際で!』
笹森先生はそれだけ言ってガチャリと電話を切る。
「嘘だろ……、なんだよそれ……。なんなんだよ……」
アンヒバは以前に処方されているから冷蔵庫にあるだろう。確かに熱は高いが、そういう問題ではなく一刻を争う。
主治医に歯向かう事になるが、指示通りにしたら星野さんは死んでしまう。僕は覚悟を決めケアマネジャーに電話する。
「お世話になっております。トータルケア訪看の築島です」
『こちらこそお世話になってます。どうされました?』
ケアマネジャーである若い女性が電話に出る。
「今、星野寅次郎さんのお宅に訪問してるのですが、SATも低く、熱も出ていまして誤嚥性肺炎の可能性があります」
『そうですか……。笹森先生には報告しましたか?』
「はい。解熱の座薬を使えとだけ指示がきました」
『それでなんとかなりませんか?』
「ならないと思います。危険な状態です」
『はぁ、そうですかぁ。困りましたねぇ。どうしたらいいでしょう?』
まるで他人事のように話す。どうしたらいいか訊きたいのはこっちの方だ。
「どこか受診させるか……、救急車を呼ぶか……。ですね」
『受診ですかぁ。今からだと介護タクシーも付き添いのヘルパーさんを探すのも難しいですかねぇ。救急車は息子さんに許可をとらないと……。とりあえず笹森先生の指示通りにしてみたらいかがですか?』
結局、何の解決策も出ず時間の無駄だと思い、話を切り上げる。
「わかりました。息子さんにはこちらから連絡します。また後で電話しますので」
『そうですか。ではそのようにお願いします』
ケアマネジャーとの電話を切り、今度は息子さんへ電話する。
『はい?』
「もしもし?トータルケア訪看の築島と申します。寅次郎さんの事でお電話しました」
『オヤジがどうかしましたか?』
「実は、誤嚥性肺炎をおこしている可能性が高くて、熱も出ていて、急ぎで受診が必要なのですが」
『笹森先生は診てくれないんですか?』
「報告はしました。ですが、ちゃんとした指示はいただけませんでした」
『いつも偉そうなのに使えねぇ医者だなぁ。でも困ったなぁ。僕は仕事で今日は出られないんです。誰か連れていってくれる人とか頼めないかな?』
「ケアマネジャーさんにも連絡はしましたが、今からだと手配が難しいようです」
『まいったなぁ。どうしたらいいと思う?』
「救急車を呼んで入院させてもらうとか……」
『入院はなぁ。縛られたり管入れられるのも可哀想なんだよなぁ』
「あの、別の在宅専門の先生に往診に来てもらうというのはどうでしょうか?」
『それだったらいいね。じゃぁ、それで頼むよ』
「ただ、笹森医院には診てもらえなくなりますけど大丈夫ですか?」
『どうせ診てくれないしいいよ。君に任せるから、オヤジの事、よろしく頼むよ』
息子さんがそう言って電話を切る。次はあそこに電話しなければ。
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