第10話 学校では教えてくれない在宅医療
斉藤さんのマンションを出て、僕等は次の訪問先へと自転車を走らせた。
南台から中野通りに入り延々と北上する。東西に走れば東は新宿で西は杉並だ。横移動だけだったら10分ほどで3区を移動できるのだが、誰が決めたのか中野区の縦は長い……。
ほぼほぼ渋谷である方南から、若宮や鷺ノ宮への移動は拷問といってもいい。区の移動にパスポートが必要なら僕のパスポートは1日で書き換えが必要だろう。
野方商店街を抜け、西武新宿線の野方駅を越えると新青梅街道へと出る。間違っても環七を通ってはならない。途中で自転車を押すハメになるからだ。走るには最高の電動自転車はバッテリーが切れた時と漕げない場所では苦痛たっぷりの荷物となる。
少し雲行きが怪しくなってきており、ひょっとしたら雨にあたるかもしれない。すでに訪問時間はギリギリだ。後ろの田山さんを気にしつつ、僕は少しだけペースを上げる。
新青梅街道を西へと走り、本日2件目となる家へと到着する。
「こんにちはー。訪問看護の築島です」
ごく普通の一軒家のチャイムを鳴らし挨拶をする。
程なくして、いかつい中年の男性がインターホンの応答ではなく、玄関の扉を開けて出迎えてくれた。
「待ってたよ。わるいね、無理言って」
「今日は、新しい看護師も連れてきました。よろしくお願いします」
「田山です!よろしくお願いします!」
元気よく挨拶する田山さんとは目も合わせずに「そうか」とだけ口にする。
恐い。ハッキリ言ってビビる。あらかじめ情報は伝えていたのだが、田山さんも少しだけショックを受けたようだ。
僕たちは、利用者である小森ヤスさんの部屋へと入った。先程のいかつい男性はヤスさんの息子だ。
「お母さん!看護師さんが来たよ!よかったねぇ。今日はお風呂に入れるよ!」
息子の声かけに薄っすらと目を開けて首を振る。
ヤスさんは要介護5で寝たきりだ。最近では食事も満足に取れないため、24時間で点滴をしている。だいぶ衰弱しており終末期のために主治医から特別指示という訪問看護指示を受けている。
「では、状態を診させていただいてから点滴を抜きますね」
「よろしくお願いします。ホント助かります」
そう、このいかつい息子さん。母親想いのすごく良い人なのだ。今までも訪問入浴をしていたが、最近は点滴をしていることもあり、入浴できずにいたのだが、息子さんのたっての希望があり、入浴の前後で点滴の抜き差しをすることになったのだ。本来であれば1日・1週間の訪問回数は介護報酬・医療請求で決まった回数までしかできないのだが、特別指示だけは別である。ヤスさんのように点滴の管理が必要であったり状態が思わしくない人には複数回の訪問が許される。ヤスさんは主治医にも恵まれている。
「では、田山さん。バイタルお願いします」
「はい。小森さん、看護師の田山です。血圧やお熱を測らせていただきますね」
ヤスさんに声をかけ、田山さんがバイタルを測定する。
ひと通りの測定が終わるが、腕や足をみて何かを捜しているようだ。
「どうしたの?」
「あのぉ。点滴の刺入部が見つからないんですが……」
そうだった。点滴をしているとは言っていたが、何処からとは言ってなかった。
「あぁ……、ごめん。ヤスさん、すみません。ちょっと点滴の針を診ますね」
僕はヤスさんの寝衣を捲り上げ、腹部を露わにする。
「えっ?」
思わずと言った感じで田山さんが声を上げる。その反応は当然だと思う。僕も最初に見た時は「え?」だった。
ヤスさんの腹部にはシリコンの留置針が刺さっている。腕や足の血管ではなく腹部に刺さっているのだ。
「持続皮下点滴だよ」
「持続の皮下ですか……?」
注射の仕方には様々な方法がある。一般的に点滴をするのは血管に刺す静脈注射。より高カロリーな点滴が必要なら太い血管に刺す中心静脈栄養法。痛み止めやゆっくりと持続させるためには筋肉注射。アレルギーや抗体の検査では皮内注射。そして、皮下注射というのは予防接種などで使われる方法だ。バルーン式ポンプを使用した鎮痛剤注入では持続皮下注射を選択する事は知っていたが、まさか点滴を注入するとは学校では教えてくれないし、病院でもお目にかかることはない。
「この方法だと、抜けた時のトラブルもないし吸収もゆっくりだから浮腫がひどくなることもないみたいだよ」
「すごいです。初めて見ました」
「じゃぁ、抜いてみて」
「はい!」
田山さんが、針の上に貼ってある保護フィルムを剥がし、アルコール綿を当てながら針を抜く。
「血が出ないんですね」
「そうだね。血管に入ってるわけじゃないからね」
もし、血管に針が入っている状態で、何かの拍子に接続部が外れでもしたら血の海になってしまう。持続皮下点滴は在宅療養では、家族も看護師も安心できる注射方法だろう。
針を抜いた事を息子さんに伝え、僕たちは1度訪問を終了する。次は入浴後に針を刺すために訪問しなければならないが、東中野まで戻って再びやってくるのは精神的に辛いため、近くで待つ事にする。
小森さんの家を出る頃には雨が降り始め、ブラブラとしているわけにも行かなかった。僕たちは近くのファミレスで待つ事にした。
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