第9話 心の病気 その2

「斉藤さん、血圧とお熱を測ってもいいですか?」


 僕の問いかけに斉藤さんは布団の中から腕だけを出してよこす。了承の意味でいいのだろう。


「じゃぁ、田山さん。バイタルとってみてください」


「はい」と返事をしてカバンの中からバイタルセットを取り出す。体温計を脇に挟み、聴診器を耳にかけたところで田山さんの手が止まる。


「あのぉ……。これってどう使うんですか?」


 手に持ったアネロイド式血圧計を不思議そうに眺めている。今時、学校でも病院でも使うことない血圧計は、手動で加圧し聴診するタイプの物だ。訪問診療や訪問看護ではよく使われている。

 実のところは、トータルケアでも電子血圧計を使う看護師は多いのだが、電子血圧計なら量販店で買って自分でも測定できるのに対して、アネロイド式は実際に音を聴き、より正確な数値を出すことができる。不整脈に気付いたり、電子式では測定不能の場合でも触診することもできる。

 そして、実際に測ってもらったという満足度も高いのだ。

 田山さんに血圧計の使い方を教え、測定もらう。


「112の60ですかね?」


 なんとも自信なさげに言うと、布団の中から斉藤さんの「ちゃんとやってよね……」と呟きが聞こえてくる。泣いていた事を考えると陽性から陰性に変わる微妙な時期なのかもしれない。かなり接しにくい状態だと思う。

 それを聞いた田山さんは落ち込むのかと思いきや平然としていた。そんな事を言われたら新人の頃の僕だったら落ち込んだだろう。意外と肝が据わっているのかもしれないな……。僕は口を出さず、田山さんの様子を見守るだけに決める。

 ひと通りのバイタルを測り終えると、田山さんは僕に確認する事もなくベッドの横に座ってジッと待つ。


 何をすればいいかわからないというわけではなく、彼女はおそらく慣れている。精神疾患について理解している。僕よりもはるかに……。

 何も動きのない時間が流れる。5分ほどではあるが、何かをしていればあっという間の5分も、何もせずに待つ5分は恐ろしく長く感じる。


「私、どうなっちゃうんだろう……」


 話したい事があるのだろう。布団の中から斉藤さんの不安そうな声が聴こえてくる。

 統合失調症には大きく別けて、陽性症状と陰性症状の2つの症状が存在する。

 陽性症状では「誰かに見られている」「爆弾が仕掛けられている」などの幻視や、誰かの声が聞こえて命令されているような幻聴などが表れる。この時期は、あちこちに電話をしたり、物を買い漁ったりと非常に活発に行動する。

 逆に陰性症状では喜怒哀楽が消失し、口数が少なくなって他人とのコミュニケーションが取れなくなる。ずっと横になり引きこもってしまう。


「声が聴こえないの……。どうすればいいかわからないの……」


 僕たちには見えないし聴こえないが、斉藤さんにとっては見えて聴こえている。ただの妄想ではなく、患者さんにとっては現実に起こっている出来事である。


「急に聴こえなくなったら不安ですよね」


「私どうしたらいいの?」


「今はゆっくり休まれるのがいいですよ」


「そう……。そうね、ありがとう」


 それだけだ。それだけの会話であり看護だ。あれをしろ、これをしろと強要はしないし、それがダメだと否定もしない。身体を拭いたりお風呂に入れたり、話を弾ませるといったことは無理にしない。精神疾患の患者さんは繊細だ。

 訪問看護では、内科、外科、小児科、皮膚科など病院にある診療科のほとんどを診る。

 免許は看護師免許か准看護師免許があれば訪問看護師として働けるわけだが、精神科だけは違う。精神科訪問看護をして報酬をもらうためには、精神科の実務経験か講習修了者でなければ、訪問看護の算定を受けれない。これは精神科だけであり、いかに難しい領域なのかがわかる。

 ちなみに僕は講習を受けて算定要件を得ただけで、精神科看護は、訪問するようになって初めて経験した。

 田山さんは経験者でも講習修了者でもないはずだが、精神科に興味があって独学で勉強でもしているのだろうか?


「あら、いらしてたんですね」


 広い薄暗いリビングに女性が現れる。40代の娘がいるとは思えないくらい若々しい印象だが、よく見ると髪はボサボサで、だいぶ疲れているように見える。日出子さんの母親である斉藤陽子さんだ。


「どうも、お邪魔してます」


「暑かったでしょう?冷たいものを用意しますから、こちらにどうぞ。そちらは新しい看護師さん?あなたもどうぞ」


 とても柔和な笑みを浮かべ僕たちを別室に誘おうとするが、日出子さんが田山さんの手を握り、それを許さない。


「築島さんだけいってきて。あなたはここにいて……」


 陽子さんは苦笑いを浮かべ肩をすくめる。


「あ、私は大丈夫です」


 よほど田山さんの事が気に入ったのか、同じ女性だからかもしれないが、今までになかった反応だ。

 布団に入ったままの日出子さんと田山さんを残し僕と陽子さんは別室へと移動する。元は日出子さんの部屋だったのだが、現在はリビングが寝室となっているためリビングがわりに使用されている。

 勧められた椅子に座り陽子さんと向かい合う。


「先週来た時は活発だったと思ったんですけど、いつ頃からですか?」


 陽子さんが僕の問いに深い溜息を吐き話し始める。


「3日前に、職場の方々がいらしたの。書類を届けに来ただけだったのだけれど、その後から興奮しちゃって、昨日から寝たままになったのよ」


 日出子さんは現在休職扱いとなっている。傷病手当をもらっているため、書類のやりとりがあるのだろう。おそらく職場が原因で発症した統合失調症であるため、仕事に関わる事で精神状態が乱れてしまう。

 職場としては、訴えられたりしないように誠心誠意を尽くしているつもりなのかもしれないが……。自分から退職を申し出るまでの我慢比べといったところかもしれない。


「お母さんは大丈夫でしたか?暴力を振るわれたりしませんでしたか?」


「それはありません。でも、たまに汚い言葉で罵られたりはします。けど、まだ大丈夫です」


 精神疾患をもつ家族の面倒をみていくのは大変だ。僕にはその苦労はわからないが、患者さん本人だけでなく家族の苦悩を少しでも和らげるように、埋められない大きな溝をつくらないように援助していくのも仕事の1つだと思っている。


「何か困ったことがあればいつでも相談してください」


「ええ、ありがとうございます」


 僕と陽子さんがリビングに戻ると意外な光景に2人で顔を見合わせる。

 寝ていたはずの日出子さんがベッドに腰掛け、楽しそうに田山さんと会話をしていたのだ。


「あぁ、もう時間?残念……、もっとお話ししていたかったのに。田山さん、また来てね」


 日出子さんが白く細い手を差し出し田山さんに握手を求める。田山さんはその手を握り笑顔で返す。


「はい!またお話ししましょう」


 陽子さんが玄関まで見送ってくれた。


「あの子のあんなに楽しそうな顔なんて何年振りかしら。田山さん、ありがとう。また、いらしてくださいね」


 陽子さんの安堵した表情に見送られ僕たちは次の訪問先へと向かった。




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