第8話 心の病気
暑い……。
7月も始まったばかりだというのに、この暑さだ。噴き出る汗を拭いながら自転車を漕ぐ。山手通りを坂上方面へ走り、東中野の事務所へと向かう。一生懸命に立ち漕ぎするサラリーマンの横を、座ったまま軽く追い越し優越感に浸る。みたか!電動自転車の実力を!
「ふふん」と心の中で鼻を鳴らすが、その横をロードバイクがスイスイ走っていく。ダメだ。奴らには勝てない……。
そんなくだらない一人遊びをしながら10分ほどで事務所へと到着する。
「おはようございます」
事務所の扉を開けて挨拶をする。
「おはよう。築島くん、なんだか久しぶりじゃない?」
関さんが挨拶を返してくる。
「出勤はしてましたよ?関さんいつもいないから会うのは久しぶりですね」
「あ、そういえば……。最近バタバタしちゃってたからなぁ。この前はありがとうね。また呑みに行こう」
「え?なになに?2人だけで呑みにいったの?ちょっとー、なんで私を誘ってくれないのよぉ」
奥の部屋から訪問バッグを抱えた大関さんが出てくる。
「大関さんも行く?『きたぐに』だけど、しげるさん会いたがってるよぉ」
「げっ……だったらパス……。おじさんより若いメンズのほうがいい。ね、築島くん」
「そ、そうなんですか?」
大関さんに話を振られ、ゾクゾクっと背筋に冷たいものを感じる。
「築島くん。今日から新しいバイトの子が来るから、一緒に訪問にまわってもらってもいいかな?」
「はい、大丈夫です。経験とかある方ですかね?」
僕の問いに関さんは少し困ったような表情を浮かべる。
「まだ1年目の子なんだけど、最初のうちは見学だけでもいいから……」
1年目ということは新卒で4月から働いているとすれば、経験3ヶ月しかないことになる。新卒と聞いて少し不安な気持ちになる。
「僕で大丈夫ですかね?」
「築島くんなら大丈夫よ。私はこれから担会に出ちゃうから、あとはよろしくね」
訪問看護の管理者はとにかく忙しい。新規の利用者の獲得や、契約などの手続き。介護認定を受ける度の担当者会議も仕事の1つだ。
常勤の2人を見送り、新しいバイトを待つ。
誰もいなくなった事務所内で優雅にコーヒーを飲んでいるとゆっくりと扉が開く。恐る恐る開けたといった感じだ。
「おはようございます……」
注意していないと聴き取れないくらいの小さな声が聴こえる。
「おはようございます」
僕も、ついつい覇気のない小さな挨拶を口にしてしまう。
入ってきた女性は小柄で、例えるならリスやウサギなどの小動物のように見える。新卒なら22、23くらいだろうが、肩までの髪は染めたこともないような黒で、まるで飾り気のない純朴そうな外見は高校生や中学生にも見えなくもない。
女性は僕以外に誰もいない事務所内をキョロキョロと見回している。
しまった……。名前を聞いておくのを忘れてしまった……。
「築島です。今日、一緒に訪問することになりました。えーっと……」
「あっ!田山琴乃です!よろしくお願いします!関さんはまだいらしてないんですか?」
「えっと、関さんは会議があって出ちゃいました。もう1人の常勤の方も訪問に行ったので、今は僕だけです」
不安そうな表情を見ていると、なんだか申し訳ない雰囲気なり、かしこまってしまう。
「じゃぁ、聞いていると思うけど簡単に説明しちゃうね……」
そう言って、僕はタイムカードや自転車置場、タブレットの使い方などを教えていく。驚いた事に彼女は関さんから何も聞いていなかったのだが……。
「1日では憶えられないと思うから、わからない事があったら気軽に聞いて。連絡はLINEを使ってるから、そっちでも大丈夫だからね」
「はい……」
なんとも頼りない返事が返ってきて僕も自信を無くしてしまう。
一緒にタブレットを観ながら、今日訪問する利用者さんの情報を教えていく。初めてだからだろう。比較的穏やかな利用者さんがピックアップされていた。
あらかたの説明も終わり、自転車置場へと案内する。
「田山さんは中野区に住んでるの?」
まるでナンパのようになってしまうのだが、どうしても確認しておかなければならない。訪問系の仕事だと移動がスムーズにできるかできないかでペース配分が難しいからだ。訪問件数や移動時間の調整を取る必要もある。
「いえ……。府中です」
「そっか。じゃぁ、最初は道もわからないだろうからゆっくり走るね」
後ろを気にしながら自転車を漕ぐ。一件目は南台にあるお宅への訪問だから道路状況は良い。人も車も多い山手通りだけど、歩道が広い上に自転車専用レーンもある。
東中野から登ったり下ったりしながら右折して方南通りと入り、すぐに斜め左に進む。なるべく人通りの少ない道を選ぶ。田山さんがついてきているか、時々後ろを振り返りながら走る。
まっすぐに南台の商店街を抜け住宅街へと入り一件目のマンションへと到着する。
インターホンがあるが、利用者さんがインターホンの音を嫌がるため鳴らさずに預かっているカギでエントランスを通り抜けエレベーターで部屋へと向かった。部屋のカギを開け軽くノックしてからドアを開ける。
「こんにちは。トータルケア訪看の築島です」
広いマンションの玄関から利用者さんの姿は見えない。おそらくはベッドに横になっているのだろう。
「入って……」
少し待って、泣いているような、か細い声で返答があった。
「失礼します」
僕は靴を脱ぎ、室内へとあがる。どうしていいのかわからず立ったままの田山さんを室内に入るように促す。
普通であれば玄関先で紹介して一緒に入るのだが、この利用者さんは今日は起きてこれないようなので仕方がない。この場で紹介しても気分を害するか、煩がられるかのどちらかだろう。
「斉藤さん。こんにちは、築島です。今日は新しい看護師の田山と一緒に来ました」
冷房が効いた部屋で、布団を深く被る利用者、斉藤日出子さんに声をかける。
統合失調症で陰性症状真っ只中の42歳女性だ。一流大学を卒業して大手外資系証券会社に勤めていた。順調にキャリアを積んでいたのだが、上司のパワハラにより3年前に統合失調症を発症してしまったのだ。
現在は1人暮らしであるが、毎日母親が来て生活の面倒を見てくれている。
充血した目でチラッと僕たちを見て、また深く布団を被る。瞼も腫れており、ずっと泣いていたのだろうか?
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