第24話 みぞれの日ー2
柱時計の鐘が六回鳴り、少しして、荷物をまとめた永瀬桃が奥からやってきた。彼女が店を出るいつもの時間。
「そろそろ失礼します。また明日」
「うん、また」
いつもならドアを開け素っ気なく立ち去るのだが、今日は立ち止まったまま、もの言いたげな顔で俺を見た。
「なに?」
「それ、原稿ですよね」
「ああ、また送られてきたんだ」
「いい作品ですか?」
「いや」
これまで受け取った原稿で商業レベルに達しているものは、まだ一つもない。
「章さんは、次に出版したい本ってあるんですか?」
広川蒼汰の『リベンジ』――そうこたえられたらどんなにいいか。だが彼は見つからず、見つかったとしても、うちからの出版は難しいだろう。
「ない、かな。今のところは」
「……」
永瀬桃は、ふいに窓の外を見やった。突如激しくなった雨音に注意を引かれたのだろう。
もう店を閉めて送ってやってもいいかも知れない――駅まで十五分、この悪天候の中を歩かせるのは気の毒だ。
「車で送るよ、自宅まで」
「……まだ営業時間ですよ」
再び俺を見た永瀬桃は怪訝そうだ。
「もう閉める。こんな天気じゃ、誰も来ないだろうから」
永瀬桃は少し考えた後、「駅まででいいです」といって俺の先に立ってドアを開けた。
助手席に座る永瀬桃は、重そうな黒いリュックを抱え、黙って前を見つめている。
「春季講習には、行かないの?」
春休みが終われば彼女は高校三年生だ。
「行きません」
「大学は受けるんだよね?」
黙ってこくりと頷く。
信号が青になった。雨はいつしかみぞれに変わり、フロントガラスにぼたぼたと打ち付けるのを、ワイパーがひっきりなしに左右にかきよせ続けている。
「さっきの話ですけど」
「何?」
「次に出版する本」
「ああ」
「前に話していた、章さんが失望させた作家は? 出版取り止めになったって言っていたじゃないですか。その人の本、ミュゲ書房から刊行すればいいんじゃないですか?」
それが言いたかったのか。
「無理なんだ」
「どうしてですか?」
「今、彼がどこで何をしているのかわからない。それにもし連絡が付いたとして、市長たちのようにうまく売る方法が思い当たらない」
専門書店三店に卸す方法、新聞の書評欄で宣伝する方法、いずれも『リベンジ』では使えないだろう。そして泉谷書店での平積みも、ライトノベルの場合はよほどの大物作家か人気シリーズでないと、ほぼ不可能だ。
永瀬桃はそれ以上何も言わず、また車内に沈黙が訪れた。
「着いたよ」
やがて駅のロータリーで車を停めたが、彼女はじっと助手席に座って前を見つめたまま降りようとしない。何だろう、この態度は。
「永瀬さん、一体どうした――」
永瀬桃は抱えているリュックのファスナーを弄んでいた華奢な指を止めると、正面を向いたまま、おもむろに口を開いた。
「私はいつも最大限、力を出し切ります。後で読み返したら稚拙だなって思うことはありますけど、それでも書いているその時は全力です」
なんだ? 突然なんの話に変わった?
「メールに書いてましたよね。『私で何かお役に立てることがありましたら、いつでもご連絡頂けましたら幸いです』って」
なにをいっている。
「読んでください。書き直しました」
永瀬桃はリュックから厚みのある封筒を取り出し、俺に押し付けた。こちらを見るその目には強い光が宿っている。
まさか。
「秋田さんの指示で削った部分はほとんど元に戻しました。そして対象年齢を小学生からに広げるために、平易な表現を増やしています。オリジナルより各段に良くなったはずです。
出版社数社に送ってみましたけど断られました。理由はすべて同じ。『丸山さんで大賞を出した以上、うちでは出版できない。筆力はあるから、新作を書いてくれればそれを出版することは検討してみたい』」
こんなことがあるのか。
封筒に何が入っているのか、確かめなくては。
だが彼女の口から発せられる信じがたい言葉の数々に、身動きが取れない。
「一般文芸への転向を進めてくれた編集さんもいましたけど、まずは『リベンジ』を何とかしてからです」
今、隣に座っているこの子は――。
「広川蒼汰」
絞りだした自分の声は、まるで他人の声のように耳に響いた。
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