第1話 旅の始まり⑦
旧市街地と新市街地の間には一本の河が横切っている。この河と河上に建てられた中央広場がグリアモの背骨となっている。中央広場の端の階段を下った旧市街地側の河原に、その姿はあった。
「やっぱりここにいやがったか」
ヴェルナーは土手で膝を抱え縮こまっている背中に声をかける。その肩が僅かにはねて、顔がこちらに向いた。
「……ヴェルナー」
バズはばつが悪そうにヴェルナーを見上げる。しばらくの間一人で頭を冷やせたのか、その瞳は店を飛び出した時の激情は無く、ただひたすら悲しみがあった。まるで親に叱られた子供のようだ。いや、まさにそうなのだが。その姿にヴェルナーはなんだか笑いがこみあげてきた。
「……なんで、笑うんだよ」
「……っ、はは……悪い悪い」
一度ツボに入ってしまうと笑いが止まらなくなった。しばらく腹を抱えてくくっと肩を震わせているヴェルナーを見て、怒る気力も失せたのかため息をついてそっぽを向いてしまった。笑いの波が収まってきたところで、ヴェルナーはバズの隣に腰をおろした。
しばらくの間、二人ともただ黙って河の向うを眺めていた。新市街地は夜の帳が下りても無数の街灯で煌々と明るい。帝都では近年ガス灯が普及し、特に貴族街の街灯や邸宅の照明はほとんどガス灯に変えられた。この町にはまだ蝋ランプしか無いが、あと数年もすればこの町も帝都のような明るい町になっているだろう。世界は少しずつ、そして確実に次の時代へと歩を進めている。
「……わかってるよ、バルドは何も間違った事は言ってない。悪いのは煮え切らない俺だ」
沈黙を破ったのはバズだった。
「当主になる、その決断に迷いは無い。でもその一方で罪悪感もあるんだ」
ぽつぽつと言葉を落とすバズをヴェルナーはただ黙って見ていた。
「俺はバルドに拾われて、周りの仲間もほんとに良くしてくれて。俺にはもったいないくらい暖かい人たちで、この人たちに恩返しをしたいっていつもずっと思ってた」
「……」
「でも、俺はまだあの人たちに言ってないことがたくさんある。拾ってくれた時からずっと、言おうと思って言えなかった事があるんだ」
バズの顔が険しくなる。苦渋を浮かべ苦しそうに息をつく。
「もし、言ってしまったら俺はここにいられなくなるかもしれない。皆に拒絶されるかもしれない。怖いんだよ、だからずっと言えなかった。……でも、これ以上誤魔化せないのかもしれない」
どうしたらいいのかわからないんだ、とか細い声で力なくうなだれた。
ヴェルナーがこの二年、近くで見てきたバズという男は、いつだって明るくて悩みなんてなさそうな天真爛漫な少年だった。こんな風に思い悩んでいる姿など想像もできなかった。同時にヴェルナーは納得した。何故自分や周りの人間がこの少年に惹かれるのか、少年の周りに人が集まるのか。嬉々と笑い、毅然と怒り、粛として憂い、そしてまた煌々と笑う。そんな人間味あふれるところがこの少年の魅力なのだと思う。
だからこそヴェルナーはこの少年の力になりたいと思った。
「バズ、俺がどうして軍人になったか、話したこと無かったよな」
え、とバズは意表を突かれた顔をしてヴェルナーを見た。
「俺が軍に入ったのはな、ある人の影響なんだ」
「ある人?」
「ああ、俺は昔孤児でな。身寄りもなく一人で生きてきたんだけど、その俺に名前と生きる術を与えてくれた人がいたんだ」
お前でいう、バルドみたいな存在だな、とバズに目配せをする。
「もう十年以上前の話だ。その人は軍人だった。それまで一人で生きてきた俺に沢山のものを見せてくれた。あの人がいなければ、今の俺はここにはいない」
「……じゃあ、ヴェルナーはその人に憧れて軍人になったのか」
バズの問いかけに、ヴェルナーは首を横に振った。
「半分正解、半分間違いってとこかな。俺は確かにその人を尊敬してたけど、俺が軍人になったのはその人を探すためなんだ」
「いなくなっちまったのか?」
「ああ、出会って三年ほどたったある日な。突然の事で俺も動揺した。でもしばらく経って、俺も同じ軍人になれば何か手掛かりがつかめるんじゃないかと思った。だから俺は軍人になったんだ」
正確に言うと、その人物についてヴェルナーが知っている事は、軍人であるという事くらいしかなかった。そして軍人となった現在、未だ恩師の行方は見つからず、ヴェルナーは捜索を続けている。
「でも、そんだけ探してもいないんなら、……もう死んでる可能性もあるだろ?そこまでして、どうしてその人を捜すんだよ」
「恩を返したいからさ」
『恩』という言葉にバズの眉がピクリと動いた。
「俺はあの人にまだ何も返せていない。だからちゃんと伝えたいんだ。たとえもう亡くなってたって、あの世からそれを見てるかもしれない。でも、あなたのおかげで、俺は一人の人間として成長することができた。あなたのおかげで、こんなにも世界が広がったんだって見せてやりたい。―――バズ、お前だってバルドさんや他の奴らに対してそう思ってるんだろ?」
「……うん」
「だったらそれでいいんだよ。嫌われるとか、拒絶されるとか。そんな事は考えなくていいんだ。大事なのはお前がどうしたいかだ。お前がやりたいようにやれ、バルドさんならきっとそれに応えてくれる」
たとえ何があろうとも、バルドはきっとこの少年を暖かく受け入れてくれる。ヴェルナーはその確信があった。
「けどなあ、バズ。その恩に報いるってのも大事だけど、多分俺たちにはもっと必要な事があるのかもしれない」
「……必要な事って?」
疑問符を投げかけるバズに、ヴェルナーは昨日バルドと話した事を伝えた。
「昨日バルドさんが言ってたんだ。グリアモには変化を起こしてくれる新しい風が必要なんだって」
「バルドが……?」
「それはお前の事だよ。お前がこの町を変えてくれるんじゃないかって思ってる。バルドさんだけじゃないさ、お前の仲間も、この町の連中も、俺だってそうだ」
この少年になら、グリアモを任せられる、もっと明るい町にしてくれる。根拠は無くとも皆心の底でそう感じている。
「俺もこの二年、いやそれ以上か。ずっと行方を探してきた。でもまだ見つからない。それはきっとまだ俺が知らない世界があって、そこに手がかりがあるんじゃないかと思ってる。俺たちに必要なのは、まだ見ぬ世界を知る事だ」
「……」
「だからさっきバルドさんが言ってたように、この町を出て、もっと色んなものを見るのはお前にとって悪くないことだと思う。そして出来るならお前がその中でけじめを付けて、なんの迷いも無くこの町で生きていけたらなお良いんじゃないか?」
最初にバルドから町を出ろと言われた時、バズは怒ったがそれ以上に彼の中には絶望と恐怖があったのだろう。そして今、無二の親友から同じく告げられた言葉は、バズの中にすとんと落ちたようだった。
「俺からも改めてお願いするよ。俺と一緒に来てくれないか、バズ。お前がいれば随分と心強いし、何より楽しい」
最初は不本意だったこの任務も、ヴェルナーやバズにとって必要な旅だと思えば、不思議と不安や苛立ちもない。
ヴェルナーはバズに笑いかけると、拳をバズに突き出した。少しの間、バズはその拳を見つめていたが、やがて吹き出したように息をすると、同じように拳を作りコツっとぶつけて笑った。
◆
出発当日の朝、ヴェルナーは指定された通り、グリアモ新市街地側の東門に待機していた。門の向うには幅の広い街道が続いており、この街道を南へと下っていくと港町ヨドに辿りつく。その間にも小さな町村が街道沿いに連なっており、そこを経由しながらヨドへと向かう予定だ。ヨドまでは馬車で三日、徒歩ならば五日はかかる。
とりあえずは馬車に乗ってヨドを目指すことになる。ヨドに到着すれば、そこからは海路だ。最終目的地のメテルリオンへ辿りつくのはいつになる事やら。
ため息をついたヴェルナーの身なりは、いつも通り、軍支給の黒いジャケットにズボン。手には当面の着替えや食糧、防寒具などが入った麻の袋だけを携えていた。本来軍の遠征にはそれなりの荷を背嚢に詰め込むのだが、今回は個人的な依頼という名目が強い。あまり仰々しい荷物は必要ないだろうとのことだった。
ただし武器に関しては別だ。ヴェルナーの両側の腿には皮のホルスターが巻きつけられており、その中から黒く光る銃器が覗いていた。軍式の小型リボルバー四十五口径、これを二丁。そして肩には最新型の連射式ライフルを担いでいる。周りの市民に配慮し、こちらも皮のカバーを取り付けていた。町内の取り物では市民の反感を煽らないように出来る限り実弾の使用は控えるよう取り決めがなされている。しかし今回の任務は町の外、戦地とはいかずとも野党や猛獣も多いため、これらの装備は必須だろう。三丁の銃に加え、中型のサーベルが一本、それから短刀を何本か服の下に納めていた。
「あれ?なんか思ったよりも身軽なんだな」
門前で手持無沙汰にしているヴェルナーに声をかけたのはバズだ。バズも普段と変わらない白のカッターシャツに臙脂のベスト、細身のズボンをベルトで締めている。バズの荷物もヴェルナーと変わらない大きさだが、目に付くのはやはり身の丈ほどもある大槍だった。
「それ目立つんじゃないか?」
ヴェルナーはその大きな獲物を指すと、バズはあっけらかんと返した。
「大丈夫だって。刃先はちゃんと布で覆ってるし、竿だっていえばわかんないよ」
確かにバズの槍は大槍にしては柄の部分が幾分細いため、あまり威圧感を与えない。
「それよりこれ見てくれよ」
そう言ってバズが腰のポーチから取り出したのは、ヴェルナーのものより小型の拳銃だった。三十八口径のリボルバー、旧式の型だがかなり丁寧に手入れされている。
「銃持ってたのか」
ヴェルナーが尋ねると、バズは少し照れたように、
「俺のじゃなくて、バルドのなんだ」
と言って、双眸を細めた。
どうやら旅の餞別として、バルドの大事な銃を託されたらしい。一昨日の酒屋での一件以来、二人が会話をしているところを見てはいなかったが、どうやら和解できたようだ。
二人で武器の云々について談笑していると、セルシムが今回の依頼主と共にやってきた。
「揃ったようだな」
セルシムは二人の顔を見ると満面の笑みを浮かべた。ヴェルナーは立ちあがると、セルシムに敬礼する。バズが付いて行くということは、昨日セルシムに伝えていた。セルシムは『バルドグロック』の次期当主ならば、と快諾してくれた。
「先日も言ったが、貴族のご婦人が辺境に向かって旅をしているということは極力吹聴しないでくれたまえ。なにか良からぬことを考える人間もこの世には多いし、本人もこの旅は出来るだけ内密にと希望している」
改めて釘を刺されると、ヴェルナーもバズもはい、と背筋を伸ばした。その態度に満足げに頷いたセルシムは、背後に控えていたカテラに呼び掛けた。
「では、ジュンア殿。道中お気を付けて」
「ええ、ありがとうございます」
出会ったときと同じ、生成りの法衣の上に大きめのマントをはおったカテラは、セルシムに挨拶を返すとこちらに向き直った。
「ではお二方。何卒よろしくお願いいたします」
「メテルリオンまでの警護、仰せつかりました。精一杯務めさせていただきます」
ヴェルナーが恭しく敬礼すると、バズもよろしくお願いしますとお辞儀した。
間もなく三人が出発しようという頃、門の周りには人だかりが出来ていた。その大半が『バルドグロック』の連中だ。バルドの姿は見当たらなかったが、あえて見送りに来ないというのもそれはそれで彼女らしいと思った。
「気ぃつけろよ、バズ」
「お前そそっかしいから心配だなぁ」
「行く先々で迷惑かけんじゃねぇぞ」
心配されているのか、けなされているのかよくわからない見送りの言葉にバズはうるせぇと口を尖らせたが、その目は嬉しそうに笑っていた。そしてバズだけでなくヴェルナーにも声が掛けられる。
「早く戻ってこいよ。待ってるからな」
「帰ってきたら、また飲み勝負しようぜ」
ヴェルナーもまた、彼らにとって大切な仲間なのだと実感する。ヴェルナーはおう、と軽い口調で挨拶するとセルシムに向き直った。
「それでは、行ってまいります」
「ああ、気を付けてな」
ヴェルナーが再び敬礼すると、セルシムも敬礼を返した。その力強い圧に押されるように、ヴェルナーは門の外へと足を踏み出した。
大勢の仲間に見送られ、ヴェルナーたちはグリアモの町を出発した。
長く、険しい旅は、こうして始まったのであった。
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