ep9.トランプタワーの信頼

「すまなかった。上司がうざったくてな。それだけだ」


「悪口は言ってはいけないって、小学生のときに教えてもらわなかったんですか?」


 ただひたすら真っ直ぐに正義を探し求めるようなはきはきとしている声。それは、俺の口から出たものではなかったし、当然のごとくおじさんの台詞でもなかった。




ep9.トランプタワーの信頼




「おねいさん! 赤の他人ぶっててくださいって言ったじゃないですか」


 そう、他でもないおねいさんだった。


「やぁごめん、つい口が滑ってさ。いちお、青の他人ぶってみてはいたよ?」


 口を滑らせたとは思えない笑顔で彼女は舌をぺろりと出した。そして、おじさんの正面に立つとともに真面目な顔になる。そのため、青の他人ってどんな他人ですか、ちな黄色の他人はどんなのですか、なんてのんきに訊けるはずもなかった。


「急になんだね……なんですか」


 彼女からのオーラ、というか圧に負けたらしくおじさんは丁寧語で言った。


「いいですか? もしもさっきのおじさんの台詞が全世界に聞こえているとしたら、おじさんがさっき傷付けたのは誰ですか?」


「誰って……あれだろ、俺の直属の上司だろ?」


 戸惑いの舟を顔に浮かべ目を左下に流しながら、おじさんは言った。


 おねいさんをちらりと見やって、あ、と声が出そうになった。憂いを帯びたような表情。この表情を見るのは、今回が初めてではなかった。というか、今日、ついさっき見たばかりだ。この電車が急ブレーキをかけて止まったときに。そういえば、この電車はまだ発車しないのだろうか。線路内の人立ち入り、ひどいことになってないといいな。そんなことを考えていると、彼女はあの表情を浮かべたままふるふると首を横に振った。


「世界中の人ですよ。もしもおじさんの台詞が全世界に聞こえているとしたら、って言ったじゃないですか。上司にその台詞が届くことは予測できても、世界中の人皆が嫌な気持ちになることは予測できないんですね」


「なにをもってそう断言できるんだよ。知らない人の知らない上司への愚痴なんて誰も気にしないだろ?」


 おじさんは吐き捨てるように言ったが、おねいさんの反論も早かった。


「誰が言ったか、誰に向けて言ったかなんてどうだっていいんですよ。重要なのは、なにを言ったかってこと。人の悪口ってのは、単にどんよりとした空気を流すだけではないんですよ。ただでさえ梅雨のせいでどんよりしてるのに」


 おじさんは両目を閉じて反省するように頷いた。それが彼女へのキューとなった。


「この地球上で、誰かが誰かに対して悪口を言ったとしますよね。これは、一生懸命生きている立派なひとりの人間を否定したということになります。一生懸命生きていない人なんていませんから」


 え、俺一生懸命生きてないです。俺ひょっとして人じゃない? そう口を挟もうとしたけれど、その隙を与えずに彼女は言葉を続けた。


「するとどうです? その悪口を聞いた人は、あぁ、自分もどこかであの人のように悪口を言われているかもしれない、って思ってしまいますよね? あるいは、悪口言ってる人が近くにいるから自分も言っていいか、って思ってしまいませんか?」


 俺は心の中で頷いた。おじさんは両目を閉じたままだった。


「人間ってのは、弱い生き物なんですよ。支え合って生きているから、誰かが裏切ったら信じられなくなってしまうんです。少しでもずれればトランプのタワーが崩れるのと同じことですよ。人間ってのは、信頼の上に成り立ってるんですよ。そうじゃなかったら、あのぴらっぴらの紙に1万円なんて価値は見出せませんよね?」


「たしかにそうだな。……本当にすまなかった。失礼、私はここで降りるので」


 彼は同意して、頭を下げた。いつの間にか、電車は発車して、減速し始めていた。


「こちらこそからかうようなことをしてしまってすみませんでした。でも、愚痴は人を嫌な気持ちにさせるということ、独り言でなくて誰か信頼できる人に話せば相談になるということを覚えておいてください」


 俺は頭を下げ、言いたいだけ言って再び頭を下げた。そして、おねいさんとふたりで元の位置に戻った。こうして、ドブネズミ色の独り言を言うおじさんは長塚駅で降りていった。彼がドブネズミ色の独り言を言わないおじさんになる日は近いはずだ。




「おねいさんもそろそろ降りますよね。学校頑張ってください」


 覺張駅が近づいてきた頃、俺はさっきから黙っているおねいさんに話しかけた。


「ありがとな。……そーいやさ、おねいさんって呼ぶの、もうやめてほしい」


「え、あ、はい。どうしてですか?」


「あともう会うのやめよ! 今後会っても、話さないようにしよ!」


 質問は無視され、急な提案に俺は驚きを隠せなかった。けれど、おねいさん、いや彼女は問答無用とでも言いたそうに手を振ってドアの方を向いた。


「じゃ! あ、そうだその制服ってさ――」


「この制服? どうかしました?」


 食い気味に訊いた俺に、こちらに向き直った彼女はふるふると首を振った。


「いいや、やっぱなんでもない! 今度こそ、あでぃおす!」


 そして、覺張駅の人ごみに吸い込まれていった。




「どうしてですかって言われてもな……。もうおねいさんって呼ばれたくないのは、君を好きになったかもしれないから、かな?」


 覺張駅の人ごみの中、誰にも聞こえないほどの小さな声でそう呟いた人がひとり。

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