ep8.ドブネズミ色の独り言

「べっつに、自分のこと嫌いでもいいんじゃないですか」


 どんよりとした空を車窓越しににらみつけ、吐き捨てるようにして俺は言った。おねいさんは、目を見開いてこちらを見た。それは、目からなにかが溢れるのを阻止しようとしているのか、俺の発言に驚いたのか、両者なのかはわからなかった。




ep8.ドブネズミ色の独り言




「そなの」


 疑問符がつかないその台詞に、俺は会話を終わらせるべきか続けるべきか迷った。ワイシャツの胸ポケットから出したスマホを、用もなくロック解除して用もなく横のボタンを押してスリープさせる。それから、言葉を選んでゆっくりと口を開いた。


「俺は、今のおねいさんを嫌いじゃないですから」


「でもうちは自分をめった刺しにして殺したいほど嫌いだ――」


 だが、おねいさんは一聞いたら十返ってきそうな速度で即答した。


「でもそう思ってたとしても、今ここにいるおねいさんが俺は好きです」


 今度は二十返ってくるかもしれないと覚悟してたけど、彼女は黙って下を向いた。


「過去から目を背けることは、決して悪いことじゃないですよ。きっと、いや絶対」


 俺が言葉を続けると、おねいさんは顔を上げてわかったありがと、と呟いた。そして、さっきまでのことなんて忘れたかのように“君の斜め左前の乗客”とささやいた。


 あぁ、もう、このおねいさんは今までのおねいさんとは少し違うんだ。おねいさんの表情を見てそう確信した。戸惑いや孤独感、罪悪感は全くなく、ただひたすらに誇らしかった。ついさっきまであれだけどんよりと曇っていた空。それは少しずつ雲が薄くなっていき、その切れ目から太陽が覗いていた。梅雨の終わりは、そう遠くないのかもしれない。夏の始まりは、そう遠くないのかもしれない。




「あのスーツ着てるおじさん、独り言多くない?」


「そうですか?」


 言ってから、俺は耳を澄ます必要がなかったことに気が付いた。ずっとぶつぶつ言っている。なんていうか、不快な部類の。しきりに舌打ちや貧乏ゆすりをしている。


「あほらしいとか、消えてほしいとか、そんな感じのことずっと言ってない?」


「たしかに言ってますね」


 俺は頷いて、そのスーツのおじさんから目を逸らしておねいさんの方を見た。


「うるさいってゆーか、ちょい不快だから黙ってくれたりしないかな――」


 右の口角だけを強引に上げて言う彼女。笑ってないことくらいは俺にもわかる。


「うるさいですよって、話しかけてみます?」


「君からそんなこと言うとは珍しいね?」


 多少馬鹿にするように言うおねいさんに、俺は片目をぎゅっと閉じてみせた。


「任せてください! おねいさんは巻き添えにしたくないから赤の他人ぶってて」




「うっせーんだよなあ」


「うるさいんですか?」


 秘技、オウム返し。これを活用して、おじさんの台詞をリピートしていく。


「どっか行ってほしい、ったく」


「どこか行ってほしいんですか?」


 俺がリピートしているときにおじさんが舌打ちをしたので、俺も真似する。この時点でおじさんは俺の存在に気付いたようだ。さーて、次はなんて言うのかな。独り言か、俺に対しての非難か。俺に対してうるさいとか言うのかな? わくわくするな。


「ふざけてんだろ、まじで」


「まじでふざけてるんですか?」


 おっと、まだ独り言は続くようだ。俺はシカトされるのか。と思いきや、


「さっきからなんだね君は!」


 しびれを切らしたおじさんが俺をにらみつけてぼやぼやした声で言った。


「申し遅れました、わたくし、人を不快にさせる独り言撲滅委員会の者です」


 一介の男子高生です、じゃつまらなかったのでそう名乗ってみた。誰かの笑い声が聞こえた。誰だ? あの聞いている人まで楽しくさせる声は絶対おねいさんのだな。


「制服を着てるってことは、学生さんかな?」


 これに対してのぼけは思いつかず、俺は黙ってこくんと首を縦に振った。


「うるさいとかどっか行ってほしいとかふざけてるとか、なにがあったんですか?」


 おじさんは額の汗をハンカチで雑に拭いてから、少し迷惑そうに口を開いた。


「学生には関係のないことだ。君はたくさん遊んでたくさん勉強して学生らしい人生を送りなさい。なにがあっても、おじさんみたいな人にはなってはいけないよ」


 おじさん的には人生の先輩としてそれなりにかっこいいことを言ったつもりだったんだろう、だがしかし。正直言って、さっきまでのドブネズミ色の独り言のせいで、説得力なんてものはみじん切りにした玉ねぎの一部ほどもなかった。


「誰かがうるさいせいで遊ぶ気にも勉強する気にもなれないんですよ、困ったなー」


 俺に向いている職は大根役者なのではと思うほどの棒読みを披露しておじさんの顔を見やると、面目ない、とよぼよぼの字で書いてあった、そんな気がした。


「それはすまなかった。上司がうざったくてな。それだけだ」


「悪口は言ってはいけないって、小学生のときに教えてもらわなかったんですか?」


 ただひたすら真っ直ぐに正義を探し求めるようなはきはきとしている声。それは、俺の口から出たものではなかったし、当然のごとくおじさんの台詞でもなかった。

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