ep6.赤の他人青の他人
あの日、おねいさんがAM7:28の電車の3両目2ドアにいなかった理由を教えてくれたのは、俺らが出会ってから1週間後の雨がしとしと降る日のことだった。
水滴がついた車窓からピントの合わないどんよりとした景色をぼけーっと眺める。やっぱ雨の日はどうしてもテンション下がるよな。そう心の中で嘆いて、ため息をついた俺に、しゃきしゃきとした採れたてのレタスのような口調で彼女はこう言った。
「そのさ、赤の他人と仲良くするのってよくないなって思ったんだよね」
「は?」
ep6.赤の他人青の他人
「その……さ。なんとなく罪悪感があるんだよね、君と関わることに」
思わず口からこぼれた呆れたような俺の声に、おねいさんは遠慮がちに、あたかも怒られている小学生のように言った。さすがにさっきの台詞、というか感動詞は俺が悪かったか。今度は感情を抑えてできるだけ礼儀正しく訊いてみる。
「なんでですか?」
と言っても、俺が使える敬語は丁寧語だけだった。美化語も使えるぜと思ったけどあれも丁寧語の一部らしい。でも敬語使おうとすると大抵二重敬語になるんだよな。
「傘返すためだったんだよ、君に話しかけたの。ただ、それだけのためだった。でも気付いたら傘を人質にしててさ。意味わかんないよな。そっから、ほとんど毎日話すようになって。……赤の他人と、仲良くなりすぎた。ごめんな、もうこれからは知らない人として、同じ電車を利用してる単なる乗客のひとりとして見てくれ」
彼女はドミノを並べるかのように、下を向いて慎重に言葉を置いていった。そして、言い終えるとふうと息をついて一瞬顔を上げ俺と目が合って、また下を向いた。
「……つまり、もう関わるのやめようってことですか? いまさらですよ、もう」
俺は感情を殺して言った。彼女はまた顔を上げたが、目が合わないうちにまた下を向いてしまった。だが、そんなことはおかまいなしに俺は言葉を続ける。
「おねいさんにとって俺は赤の他人なんですか? “おねいさん”ですよ? 今まで、この短期間とは言えどどれくらい会話したと思ってます? これでも赤の他人ですか? 赤の他人とはどれだけ仲良くなっても赤の他人には変わりないんですか?」
彼女は顔を上げず、ゆっくりと微かに首を横に1回だけ振った。もうやめて、と言っているようにも思えたけど、俺の感情は俺の脳からの司令を聞き入れなかった。
「うんざりですね。傘持ってなかったからって勝手に傘借りられて、ついでに人質にされて。この時点でイミフです。挙句の果てには、知らない人として見ろだなんて。そうやって俺はいつでも振り回されるだけなんですね。もう、いいです。ありがとうございました、赤の他人さん。傘はあげますよ、せいぜい有効活用してください」
そこまでひと息で言って、俺は床に下ろしていたリュックを背負った。彼女はミモレ丈のアシンメトリースカートをぎゅっと握った。次の駅で降りよう。降りて、俺がいつも乗っている最終車両――いや、少し前まで毎日乗っていた最終車両に行こう。そうして、彼女に出会う前の日常に戻ってやる。さよならだ。
その刹那。
がったん、と電車が大きく揺れて止まった。周りからなになになに、という動揺の声やバランスを崩して転びそうになっている悲鳴が聞こえてくる。俺とおねいさんは吊り革に掴まっていたから被害は少なかった。けど、車窓から見える景色は住宅街。
この一瞬でなにが起こったんだ?
車内アナウンスを聞き逃すまいと物音ひとつ立てないようにしていた俺らだが、
「ねーねー、まだ駅ついてないよね……?」
同じ車両にいた制服を着崩した女子高生。彼女が、その場にいた全員の胸中を言葉にしてしまった。近くにいた友達に確認しようとしただけなのかもしれない。しかしこの静かな車内に響き渡るには充分な声量だった。
それがトリガーとなって、車内はざわつき始めた。
急にブレーキがかかったのは、“線路内に人が立ち入ったため”らしい。ざわついた車内に流れたアナウンスから、なんとかここだけ聞き取った。
さっきあんなこと言わなきゃ良かったかもな。そうでなきゃ、今頃のんきにおねいさんと話してただろうに。そう思って彼女の表情を盗み見ると、さっきまでとは違う顔をしていた。憂いを帯びているというのだろうか。なにかを懐かしむような、恨むような、なんとも言えない表情だった。電車が遅延していることに対する苛立ちは、全く感じられなかった。普段のおねいさんなら頬を膨らませて怒りそうなのにな。
「全く、むかつきますよねー。線路内に人が立ち入るって、その人一体なに考えてるんでしょうね? もし自殺しようとしてやってたなら、すごく馬鹿馬鹿しくないですか? 電車は停まるし、遺族を始めとするたくさんの人には迷惑がかかるし、死体はばらばらになるし。良いことなんてなにひとつないじゃないですか」
「……ん? ……あぁ、そうだね」
おねいさんの心の声を汲み取りたくて、声が裏返らないように気を付けて発した俺の声が彼女に拾われたのは、しばらくしてからだった。どうしたんだろう。さっきの件で怒ってるわけではなさそうだけど。やっぱり雨の日の彼女は変なテンションだ。
「おねいさん?」
「……あ、なに!? ごめんなんでもないよ大丈夫! 気にしないで!」
なんっかどうも調子狂うよなー。俺は車窓からどんよりとした景色に目をやった。厚い雲が空を覆って、地球征服している。これだから、梅雨は嫌いだ。
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