ep5.雨天のテンション格差

「犯罪ですよ、それ。シンプルに窃盗やらかしてますよ」


「あは」


 “☆”がつきそうな言い方でおねいさんは笑った。顔文字で表現するところ、不等号をふたつ並べた目をしていた。




 このときの俺は知る由もない。“明日返す”の明日は来ないということを。




ep5.雨天のテンション格差




「あれ、おねいさん……?」


 3両目2ドアに乗り込んで口をぽかんと開ける俺、時刻AM7:28。きっと。いや、電車のドアが閉まって、今まさに動き出したから絶対そうだ。


 いつもの時間、いつもの場所に、彼女はいなかった。別段、気にするほどのことではないのだと思う。この電車には指定席があるわけではないし、俺のように寝坊したのかもしれない。そう自分自身に言い聞かせて落ち着こうとしたが、できなかった。


 どうして今日はいないんだろう。交通事故にでも遭ってしまったのか。もしそうだとしたら、けがはしていないだろうか? 精神こころは傷ついてないだろうか? もし傷ついていたら、今度会ったときなんて言えば、なんてなぐさめればいいのだろう?


 ほとんど無意識に、ぐちゃぐちゃと考えていた。いや、これは“考える”という動作じゃなくて妄想だったのだろう。根拠のないことを空想で作り上げていたのだ。


 心にぽっかりと穴が空いた、と定型文で言ってしまえばそれで済むことなのだろうと思う。でも、そんな定型文で終わらせられるほど俺の感情は単純じゃなかった。


 ハンバーグを頼んだのに、付け合わせの甘いにんじんとほくほくのポテトと鮮やかな黄色のコーンと飾りでしかないパセリだけがお皿に載ってやってきたような。


 舞浜方面のテーマパークに遊びに行ったら、主人公と言っても過言ではないねずみのキャラクターがたまたま有給休暇を取っていて、どこにもいなかったような。


 たくさん寝ようと思って午後7時に寝たら、午後11時に起きてしまったような。


 そういった感情にむしばまれて、俺はその日1日を過ごした。買ったばかりの新書を車内に置き忘れてしまったようだけど、知ったこっちゃない。ってかなんで俺そんなに忘れ物ばっかりしてるんだろう。小学生のときはまだいくらか真面目だったのに。


 あれ、話が逸れた。小学生のときの俺の話なんてどうだっていい。


 ほんとにこれはおかしな話で、ひとつ言えるのは、数回しか話したことない他人を心配する必要なんてなかったはずだ、ってこと。なのになんで俺は。




 昨日はいなかった人が今日はいることに胸をなでおろす俺、時刻AM7:28。え、誰がいるのかって? レモンイエローのボトムスにカーキの薄手のジャケット、その2色の組み合わせにお世辞にも似合っているとは言いがたい、原色の子どもっぽい青。当然のごとく、俺の傘だ。これでもうわかっただろ? そう、おねいさんだ。


「なんで昨日いなかったんですか?」


 おはようございますも言わずに俺は問いを投げた。だが、彼女から返ってきたのは


「やぁごめん!」


の5文字だけ。まぁ、エクスクラメーションマークを含めれば6文字か。


 質問を変えて他にも訊いてみたけれど、昨日3両目2ドアにいなかったことに関する情報は、なにひとつ得られなかった。“やぁごめん!”で貫き通されてしまった。


 まぁ俺がこんなことを知る権利なんてないのかもしれないけどなんだか、な。




 俺は雨が天気の中で最も嫌いだ。空は暗いし、服やらリュックやらは濡れるし、雪と違って遊べないし、洗濯物は乾かなくて母の機嫌が悪くなるし、なによりどんよりとした気分で一日を過ごすことになる。だから梅雨が嫌いだ、大嫌いだ。


 一方で、おねいさんは雨の日を嫌っていなかった。好きというわけではなさそうだったけど、雨の日は決まって妙にテンションが高い。普段は、俺を質問攻めにしたり俺がいつも友達と話すようなどうでもいい話をしたりするのに、雨の日は自分自身のことを話してくれることがあった。自分のことを話すのは雨の日というだけで、雨の日には必ず自分語りをする、というわけではなかったが。


 言うなれば、俺らの間にあるのは経済格差ならぬテンション格差、というやつだ。


 あの日、おねいさんがAM7:28の電車の3両目2ドアにいなかった理由を教えてくれたのは、俺らが出会ってから1週間後の雨がしとしと降る日のことだった。




 水滴がついた車窓からピントの合わないどんよりとした景色をぼけーっと眺める。やっぱ雨の日はどうしてもテンション下がるよな。かえるとかたつむりはテンション上がってそうだけど。俺ら人間の気持ちなんか1nmいちナノメートルも考えずに、ぴょんぴょこのろのろまいまいしやがって。そう心の中で嘆いて、こっそりとため息をついた俺に、しゃきしゃきとした採れたてのレタスのような口調で彼女はこう言った。


「そのさ、赤の他人と仲良くするのってよくないなって思ったんだよね」


「は?」

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