第8話ゲンエイ
「……ふう」
軽く振るって血を払い、取り出した懐紙で血糊を拭き取る。
久し振りの作法だ。
余程の大物でもない限り、霊魔は刀身に乗せた霊力で、どちらかと言えば撫でる程度で祓えてしまう。その上祓ったあとには痕跡など残らないため、こうして血を拭くことなど滅多に無いのである。
『……帰ったら、より確りと手入れをお願いします』
「え、拭いたじゃあありませんか」
『想苗殿』
「はあ、解りました」
洗剤は何が良いのかしら、等と【金宝】が知ったら卒倒しそうなことを考えつつ、想苗は納刀した。
頭を切り替える。
今考えなくてはならないことは、他にある――想苗は、霊魔に向けるものとは異なる意味での冷たい視線を、青年へと向けた。
「いやあ、助かりました!」
青年は、何故だか晴れやかに笑った。「初めまして、私は
「……戸上、と申します。当主たる祐一郎様の、妻です」
視界の隅に漂う長身瘦躯の夫の残響を、意識的に見ないようにしつつ、想苗は敢えて妻として名乗った。
自意識過剰といえば、それまでだが。
二十四、子も産んだ自分ではあるが、男性に対してはどうも一線を引いてしまう。
「戸上様! お見事な腕前です、死ぬかと思いましたよ!」
「……それで。貴方は、こんな時間に何をしておいでなのですか?」
興奮のあまりだろう、石上は想苗の両手を掴んで上下に激しく振った。
そうなれば良かったのに。
思わず浮かんだ冒涜的な考えをどうにか追い出しつつ、想苗は、礼を失しない程度の強さで手を振り払った。
「夜間外出禁止令は知っているでしょう。花守でも軍人でもないのに、みだりに外を出歩くことは禁止されています」
「それは、勿論解ってはいたのですが……」
言い淀むような仕草の後、石上は続けた。「……懐中時計を、落としてしまって」
「時計を?」
昼間の騒ぎの時だろう。
随分と派手に殴られたようだし、小物の一つや二つ失くしていてもおかしくはない。
「それほど、高価なものなのですか?」
厳しさを声に滲ませつつ、想苗は尋ねる。「どれだけの価値があるかは知りませんが、命と引き換えにするほどの物ではないでしょう?」
「父から、最後に贈られた物なのです」
「…………」
「私は蒸気都市パリに渡り、医術を学んでおりました。父はずっと、留学に反対していて、海を渡るなら縁を切る、帰る場所など無いと思えと言っていましたが――出発の日、黙って小箱を渡してくれました。西洋式の懐中時計を、父が手ずから、檜を削って作ってくれたものです」
「………………」
「西洋と、日の国と。互いの技術を組み合わせた品を贈ってくれた、父の思い。それはきっと、私への激励、もしかしたら、期待だったのではないか。私は船の中で、異国の地で、辛い時寂しい時、何度も時計を眺めていました。私の――心の支えです」
「……………………」
「とはいえ、えぇ。命と比べて、高価でもなければそれほど重いものでは」
「もう、結構です……良く解りましたから、不用意な発言でしたと謝りますから、止めて下さい……!」
「……恐らく、あれは【刀霊堕ち】です」
提灯で照らしながら懐中時計を探す想苗の耳に、石上の声が届く。
「単純に、ヒトが霊魔となったわけでも霊魔がヒトの真似をしているわけでもありません。霊魔が、黒く染まった小刀を持っていたでしょう?」
「……そうですね」
「あれが、霊魔です。長い間瘴気を溜め込み、手入れもろくにされないままに放置された、清浄であった刀霊の成れの果て。恐らく――不用意に触れた人間を、乗っ取ったのです」
なるほどと、想苗は頷いた。
瘴気は感じたし、【金宝】も霊魔の気配を感じ取っていた。
だが、あの場にいたのは霊魔に成り掛けているだけの、ただの、ヒトだけだった。
祐一郎様とは違って、想苗は【金宝】と正式に契約を結んでいる訳ではない。その分、【金宝】の力を完全には引き出せていないから、彼の感知能力も、もしかしたら劣化しているのかもしれないが。
そうではないとしたら。
想苗の見たものと【金宝】の感知したものが、共に正しいのだとしたのなら。
「そうです。霊魔はいた、但し、ヒト由来ではない存在がね」
「刀霊も、霊魔に?」
「そもそも霊魔になる条件は、一定以上瘴気をその内側に溜め込むこと、ですからね」
石上の声が、軽やかに告げる。「多くのヒトはその前に、瘴気に耐えきれず死んでしまいます。ですが花守や、そうでなくともそれなりに霊力を持つ者は、溜めてしまう。溜めて、汚染され、魂までも汚されて。そうして死ぬことで、彼らは転じてしまうのです」
そう言えばそんなことを、以前に祐一郎様が仰っていた。
思い出しながら、想苗は尋ねた。
「刀霊も、そうだというのですか?」
「手入れをされないと、刀は錆びる。身そのものは変化せずとも、周りを穢れで包まれては、もう輝くことはできません」
確かに、【金宝】も良く神社に運ばれていた――【お清め】という儀式の間、手持ち無沙汰に境内を彷徨いていたのを、想苗も覚えている。
玉砂利の感触が、足の裏に甦る。懐かしい記憶、懐かしい、過去。
「刀霊は、ヒトのように意識を持っている。もしかしたら、魂だって。研がれず、手にも取ってもらえず、ただ野晒しにされた意識が果たして善良で居続けられるか。私は、答えは否だと思っています」
「…………」
想苗は、納刀した【金宝】を静かに見詰めた。
彼は、いや彼だけではなく、全ての刀霊たちは、花守に力を貸してくれている。
貸しているだけだ、ヒトに乞われて、気紛れに絆されただけだ。
彼らが持ち主に、いつまでも愛想を尽かさないと、いったい誰に保証できるだろうか。
「よほど酷い扱いをしてしまったのでしょう。刀霊は最早荒御霊。手にした者を誰彼構わず取り込んで、霊魔としてしまう程には、ヒトの世を恨んでいたのでしょうね……いずれ、貴女の刀も、そうなるかも知れません」
「……そんなことは」
「そうですか?」
這うような姿勢で地面を探す想苗を詰るように、石上の声には嘲りが香る。「だって――貴女の刀じゃあないんでしょう?」
「っ!?」
咄嗟に。
想苗は【金宝】を引き抜いていた――無茶な居合い抜きのせいで手首に鋭い痛みが走るが、衝動がそれを無視させる。
『想苗殿っ?!』
驚いたような【金宝】の声に、逆に驚く。
――あんなことを言われて、貴方は聞き流すというのですか? なぜ?
答えは、直ぐに解った。
膝立ちのまま向けた、切っ先。
そこには――誰もいなかった。
「あぁ、見付けましたよ戸上様! ……あれ、何かありましたか?」
「…………いいえ、誰も居ません」
明るい声で懐中時計を掲げる石上は、少し離れたところで不思議そうに首を傾げた。
『……どうやら、休息が必要なようですね、想苗殿』
「そう、ですね……」
いよいよ壊れてきたなと、想苗は頷いた。
家族以外の幻覚が現れるようになったのが、その証左と言えるだろう。記憶の奥底に深く刻まれた家族の思い出を、ただ再生している訳ではなく。
今日会って数度会話しただけの相手の写し身を、脳が勝手に映し出したという事実。
最早それは、心の問題ではない。
ヒトとしての機能がどこか、根本的な部分で損傷しているという事実だ。
「……探し物は見付かったのですね? では、早く帰りましょう。夜は、今やヒトの領域ではありません」
「…………」
そう言って踵を返した想苗を、石上はじっと見詰めていた。
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